福沢諭吉について1-6 | 雁屋哲の美味しんぼ日記

福沢諭吉について1
2009年7月5日(日)@ 22:35 | 雁屋哲の美味しんぼ日記 http://kariyatetsu.com/nikki/1128.php
 この二年ほど、福沢諭吉にとり憑かれて困っている。
 その発端は、朝日新聞社発行の週刊誌AERAの2005年2月7日号、「偽札だけではない、福沢諭吉の受難」という記事にある。
 その記事には、「日本の近代化に貢献した幕末・明治初期の思想家、福沢諭吉。その先覚者が、全集に混入した他人の言説などを元に批判されている。混迷深い今こそ諭吉を評価し直すときだ」と前振りが打たれている。
 記事の頭には「思想も偽造されていた」とある。
 この記事を書いたのは、長谷川煕氏であるが、こう言う記事を載せたからには、長谷川氏だけではなく朝日新聞社もこの文章についての責任を取らなければならないだろう。

 長谷川煕氏は、ウクライナ、イラン、アラブ諸国、トルコなどを例に挙げて、いまだに近代化されていないと指摘し、それにもかかわらず非西洋国である日本が近代化されたのは何故か、とまず問いかけ、「諭吉は、近代化へと大旋回した維新期の日本に、歴史が呼び込んだような人物だった」と書き、福沢諭吉が日本の近代化を進めたと示唆する。
 さらに、明治大学名誉教授三宅正樹氏の「日本の不幸は、諭吉の路線から一時期、大きく逸脱してしまったことだ」という言葉を紹介し、諭吉の近代化路線を日本が曲がりなりにも歩み続けていたら、あの対米英戦争は起きなかったのではないかと言う。
 また、村井実慶応大学名誉教授の「まず天下国家を思うのではなく、生来の道理の感覚から諭吉は物事を考えた」という言葉も紹介する。
 一方で、少し前から諭吉を、「アジア軽蔑者」「侵略主義者」と断じ、昭和期の日本の「大陸侵略」などのそもそもの根源をこの思想家(諭吉)に求める見解が一部で喧伝されている、と言い、「福沢諭吉のアジア認識」「福沢諭吉と丸山真男」を著した安川寿之助名古屋大学名誉教授がその代表格として内外で知られる。04年11月にも、中国・北京市内の四つの教育、研究機関に招かれ、諭吉批判をやった、と書いている。
 それに対し、静岡県立大学国際関係係学部助手平山洋氏が、その著書「福沢諭吉の真実」の中で、大妻女子大学比較文化学部長井田進也氏の作り上げた科学的な文獻検証法を用いて検証した結果、安川寿之助氏が福沢諭吉批判に使った福沢諭吉の文章とされている物は、実は他の人物の書いた物であることが分かったと主張していると紹介している。
 長谷川煕氏は、ここではAという仮名を用いているが、「大正期・昭和初期に刊行され、現行の『全集』の基礎となった『福沢全集』『続福沢全集』の編集を『福沢諭吉伝』の作成と一緒に慶應義塾側から任された時事新報社(福沢諭吉の起こした新聞社。時事新報は明治時代非常に人気があり、社会的な影響力が大きかった)元主筆のA氏の悪質な作為と平山氏は推定、ないし推理する」と書いている。
 平山洋氏は次のように言っているとも書いている。

「時事新報が創刊されて10年経った1892年春ごろより、時事新報への執筆から諭吉が手を引いていったことが諭吉本人の書簡などから分かる。それにつれてAが社内を牛耳り始めた」
 最後に、長谷川煕氏は「近代化でなお苦悩する非西洋世界の人々には『福沢諭吉研究』こそ勧めたい。むろん、真筆の著作を通してである。」とこの記事を結んでいる。

 この記事を一読すると、福沢諭吉は、日本の近代化を進めた開明的な民主的な思想家で、福沢諭吉の路線を取れば日本も侵略戦争などを起こさずにすんだだろう、思わざるを得ない。
 意図的なのだろうか、長谷川煕氏は福沢諭吉をはっきり民主的な思想家とは書いていない。
 しかし、読者は、特に最後の一文などを読むと、福沢諭吉を民主主義的な思想家と思いこんでしまう。

 その福沢諭吉が、逆に、「侵略主義者」「アジア蔑視者」として批判されるのは、時事新報の元主筆Aが編纂した全集の中に福沢諭吉の文章として他の人間の文章が大量に取り込まれていて、批判はその偽の文章を元に行われていると言うのである。

 福沢諭吉と言えば、その「学問のすすめ」の冒頭の文句「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、といえり」で有名で、戦後の日本人は福沢諭吉は日本の近代民主化の旗頭と思いこんでいるのではないか。
 私も、そう思っていたのだが、二十年ほど前に、頭山統一氏の再版した、福沢諭吉の「帝室論」「皇室論」を読んで、仰天した。 民主化どころか、天皇による専制をこれでもか、これでもか、と述べているではないか。
「帝室論」の中にはこんな文章がある、

「我帝室は萬世無缼の全璧(完全無傷の玉)にして、人心収攬(人々の心を一つに掴む)の一大中心なり。我日本の人民は此の玉璧の明光に照らされてこの中に輻輳し(一カ所に集り)、内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張(外に勢いを広げる)す可きものなり。」
「皇室論」には次のような文章がある。
「帝室は日本の至尊のみならず文明開化の中央たらんことを祈り・・・」
 文明開化の中央、と言うことは、世界の中央と言うことである。
 天皇が世界の中央というのでは、日本を八紘一宇の戦争に追いやった天皇制思想そのものではないか。
 日本の近代民主化の旗頭とされる人間がどうしてこのような本を書いたのか、私は訳が分からなくなった。
 しかし、そこが私のいい加減なところで、そこから先を真剣に考えることをやめて他の方に気持ちが行ってしまった。
 じつは、その前に、福沢諭吉の書いた「脱亜論」を読んで、たまげていたのだが、正直に言って、福沢諭吉なんか今更どうでも良いと思ったのだ。
 私にとって興味ある思想家とはとても思えなかったのだ。

 福沢諭吉について2 http://kariyatetsu.com/nikki/1129.php
前回、私は福沢諭吉は興味のある思想家とは思えなかったたと書いた。
 しかし、AERAの記事を読んで福沢諭吉に改めて興味を抱き、まず平山洋氏の「福沢諭吉の真実」を買って読んだ。
 一読して、実に奇怪な本だと思った。
 長谷川煕氏はその元時事新報主筆をAと仮名で呼んでいるが平山洋氏はA氏ではなく本名の石河幹明氏を名指しで批判し、石河幹明氏が陰謀策動を時事新報社内で繰り広げ時事新報社内に生き残り、その結果主筆となり、晩年は福沢諭吉の言うことも聞かなくなり、自分で勝手に新聞の社説を書いたのみならず、後に福沢諭吉全集をまとめる際に、自分の書いた社説を福沢諭吉の物として沢山紛れ込ませたというのである。
 これを信ずるなら、途方もない、陰謀家がいたものである。
 そうともしらず、安川寿之助氏などは、石河幹明氏の書いた粗悪な文章を福沢諭吉の物と思いこんで、福沢諭吉を批判しているのだと平山洋氏は言うのである。
 更に加えて、晩年脳溢血を患った福沢諭吉は、失語症にかかり、口もきけず文章も書けない状態になり、ますます石河幹明氏の言うなりになり、晩年の時事新報の社説はすべて石河幹明氏が書いたと平山氏は言う。

 平山氏は、大妻女子大学教授の井田進也氏が発明した、一つの文章を誰が書いたか判定するための「世界に冠たる画期的な方法」(と本人が言っている)を用いて、福沢諭吉全集の中の、「時事新報社説」の文章を本人が書いた物か、他の人間が書いた物か判定していったところ、福沢諭吉の真筆になるものははなはだ少ない、と言う結論に達した。

 私は、流石にこの記事に興味をひかれ、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」、井田進也氏の「歴史とテクスト」、安川寿之輔氏の「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉のアジア認識」を購入して精読した。
 その結果、平山洋氏と、井田進也氏の福沢諭吉について書いた物の内容は、とうてい信じるに値しない物と思った。

 しかし、その時はそれで終わってしまった。
 もともと、私は福沢諭吉に何の興味も抱いていなかったからである。
 さらに、2006年に、安川寿之助氏が、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」と井田進也氏の「歴史とテクスト」に対する反論の書「福沢諭吉の戦争論と天皇制論」を発行され、それを読んで、平山洋氏と井田進也氏の論は、完膚無きまでに論駁されたと認識して、それで、私の福沢諭吉に対する興味は薄れてしまった。

 ところが、2008年、右膝の関節を人工関節に入れ替える大手術をしたあとのリハビリテーションの厳しさをしのぐために、旧約聖書、新約聖書、コーランなどを読み返しているうちに、突然、それまで疑問だったことに対する答えを福沢諭吉が解決してくれるのではないか、という思いがひらめいた。

 その長い間抱き続けて来た疑問とは、どうして、日本人は明治になると突然朝鮮・中国を蔑視するようになったのか、と言うことである。
 福沢諭吉も含めて、明治の知識人が普通に使っているのは、漢文である。福沢諭吉も全ての揮毫を漢文で書いている。漢文というと古めかしいが、早い話が中国語である。
 福沢諭吉は、「福翁自伝」の中で自分で言っているように、中国の文学、歴史文学、儒教の学を徹底に学んだ。
 江戸時代の日本の知識人にとって、漢文学、要するに中国語は学ばなければならない第一に大事なことであり、求められれば、直ちに、自分で漢詩を書いて揮毫出来なければ、知識人としては認められない。
 江戸時代まで、日本人にとって、漢文学の大本である中国、さらには、中国の文化を日本に伝えてくれた朝鮮は、尊敬の的だった。
 それが、どうして明治になって、突然朝鮮や中国を蔑視するようになったのか。
 それが私にとっては長い間の疑問だったのだが、福沢諭吉の思想をたどると、その理由が分かると思った。

 福沢諭吉は、若いときにアメリカやヨーロッパに行く機会があって、ヨーロッパの文化に圧倒され、儒教や、漢学は、時代に遅れた文明開化の敵である、という問題意識を持つようになった。
 福沢諭吉にとって文明開化とは、欧米の文化を自分たちのものにすると言うことだった。福沢諭吉にとって、蒸気機関が文明の全てを象徴する物だったのである。
 福沢諭吉の、その欧米文化に対する思いの強さはすさまじい物で、文明開化とは欧米の文化を取り入れることでしかなく、しかも、欧米の文化に乗り遅れたら、日本は欧米の帝国主義の餌食になってしまう、と言う危機感をも激しく持っていた。
 福沢諭吉は、この帝国主義の弱肉強食の世界で、日本が生き延びるためにどうすればよいか、必死に考えた。

 私は、その当時、欧米各国が帝国主義の暴力を発揮してアジアを次々に支配下に置きつつある状況で、しかも不平等条約で欧米に苦しめられていた日本にあって、日本をその残酷な帝国主義の世界で生き延びさせるためにはどうすれば良いのか考えた福沢諭吉の、日本という国を思う個人的な心情は察するに余りある、と思うのだ。
 その、欧米の帝国主義による日本の侵略を防ごうというその思いは私も福沢諭吉とともにに抱くことができる。
 しかし、そのための福沢諭吉の方策が余りにまずかった

福沢諭吉について3
2009年7月12日(日)@ 0:46 | 雁屋哲の美味しんぼ日記
記事URL:http://kariyatetsu.com/nikki/1131.php
投稿日時 :2009年7月12日(日)@ 0:46

 福沢諭吉の初期の論である「学問のすすめ」第一編の冒頭に書かれた「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」、あるいは、「学問のすすめ」第3編に書かれた「一身独立して、一国独立する事」の名文句によって、また、「独立自尊」という言葉を慶応関係者が広めて回った結果、多くの著名な学者、評論家が、福沢諭吉を「典型的な市民的自由主義者」(安川寿之助氏が徹底的に批判し尽くした丸山真男の使った言葉)と思いこんできて、特に戦後、福沢諭吉は「市民的自由主義者」「開明的な民主主義者」として、崇められ続けて来た。
 しかし、実際は、安川寿之助氏が何度もしつこく繰り返しているように(安川寿之助氏の本は、実にしつこい繰り返しが特徴だ。時にうんざりするが、それは氏が自身の論を誤解されることの無いようにするためと、一つ一つの論を反論の余地がないほど相手に分からせるためなのだろう。熱心に口を酸っぱくして説く、という感じである)、福沢諭吉は「一身独立」の方は没却して「一国独立」の方に全精力を傾けてしまった。
 前にも書いたが、福沢諭吉の生きていた時代は帝国主義国家による弱肉強食の時代であり、福沢諭吉はまず日本と言う国を欧米国家の植民地にされることを防がなければならないと言う意志が強烈にあった。
 そこまでは良い。しかし、そこから先が問題だ。
 当時の日本は、幕末に欧米によって強制的に結ばされた不平等条約に苦しんでいた。
 中でも、欧米人の犯した犯罪を日本が裁くことの出来ない「治外法権」を欧米各国に認めていたこと。
 輸出入の際の関税を決める「関税決定権」を欧米各国に奪われていることだった。
 要するに欧米各国は日本でしたい放題だったのだ。
 福沢諭吉は大略次のようなことを言っている。

「日本のあちこちに西洋館が建って、日本は繁栄したように見えるが、その西洋館は全部欧米人のものであり、日本は自国の富を奪われているのであり、繁栄しているのは欧米人である」

 その福沢諭吉の焦りと恐怖は痛いほどよく分かる。
 それに対抗するのに一つの道がある。
 自国の産業を盛んにして、国力を増強する。
 さらに、要所要所の守りを堅くして、砲台など築き、外国からの武力的進入を許さない。
 侵略されたら徹底的に追い返す力を付ける。
 これは、国を富ませ、自国を守るための軍備を整える「富国強兵論」という物である。

 しかし、福沢諭吉が取ったの、欧米各国に習って日本も他の国の土地や市場を奪おうという策だった。
 まず、軍備を整える。
 現在と違って当時の一番の武器は海軍力だった。
 外国を責めるのに現在は、爆撃機・戦闘機・ミサイルなどが主要な武器だが、当時は、戦艦で攻め込むしかなかった。
 強力な戦艦を沢山建造、あるいは外国から購入し、それで他国に侵入し、他国の土地財産・市場を奪って、国を豊かにしようという考え方だ。
「富国強兵」の逆で、「強兵富国」だ。
「富国強兵」と「強兵富国」とでは、その姿勢がまるで違う。
「富国強兵」は必ずしも、他国を侵略する必要はない。まず自国を豊かにして、その豊かな国を守るために武力を増強するのであるから、その武力は必ずしも攻撃的な物ではなく防衛的な物であってかまわない。
 しかし、「強兵富国」は強い武力をふるって他国を侵略し、その武力によって奪った土地・財産・市場で自国を豊かにしようという物であって、侵略第一の考え方である。その武力は、自国を防衛するためではなく外国を侵略するためのもの、と言う非常に攻撃的な物だ。
 福沢諭吉が取ったのは、その「強兵富国」策だった。

 福沢諭吉は、「西隣の家に取られた物を、東隣の家から奪い返す」という理不尽な策を強力に推し進めた。
 西隣の家とは、欧米各国であり、東隣の家とは、朝鮮・中国である。

 日本は前にも書いた通り、文化の基本は中国文化であり、その中国文化を伝えてくれたのは朝鮮である。
 第一、天皇家が朝鮮の血統であることは現在の天皇が明言していることである。
 その我々日本人が、どうして朝鮮・中国を蔑視するようになったのか。
 秀吉は征服欲の強い異常な性格の人間であり、関白・太閤になって日本を全て征服したと思ったとたん、朝鮮征服にふみ切った。最終的には、当時の明を自分の物にしようと思っていたというのだから恐れ入る。
 二度にわたる朝鮮侵略は、朝鮮の人々、中でも今に伝わる李 舜臣などの将軍の奮闘で、上手く行かず、秀吉の死とともに日本の軍勢は引き上げた。
 その秀吉軍の侵略は朝鮮に甚だしい損害を与えた。
 それまで日本になかった技術を持つ多くの人間を拉致してきたのである。
 今の北朝鮮が日本人を拉致したのとは桁違いの人数である。
(こんな事を書くと、北朝鮮の拉致問題を矮小化するのか、などと言う人がいるといけないから書いておくが、それとは時代も違う別問題なんだからね。)
 しかし、豊臣政権を倒して、徳川家康が政権を握ると、朝鮮との関係修復に努めた。
 もともと、何の名分もない秀吉の朝鮮侵略に反対だった家康だったから、徳川幕府安泰のために朝鮮との友好関係を復興したいと考えたのは当然だろ。
 また、対馬藩主の宗氏の努力もあって、朝鮮側が家康が二度と侵略しないという国書を呈することで、和解が成立して、1607年(関ヶ原の戦いのわずか7年後である)第一回の朝鮮通信使が日本へやってきた。
 その時には、秀吉に拉致された多くの朝鮮人を連れ帰った。
 朝鮮側は第一回の朝鮮通信使の成功を見て、次から、朝鮮の有名文学士、医師、などを次の回から送ってくるようになった。
 朝鮮通信使は、津島から壱岐を通って下関に上陸し、江戸へ向かった。
 その、通信使の道中は大変に豪華な物であり、絵巻物にもなって残っている。
 通信使の中の文士、医学師は日本では非常な尊敬を受けた。
 通信使の宿泊する先々には、朝鮮の文士の揮毫を願う物、当時の漢方医学の書「傷寒論」の分からないことを教えて貰う日本人の医者たちが、詰めかけたという。
 朝鮮通信使は1811年が最後になった。
 その後、朝鮮は国内で李朝末期の悪政や不作などの不幸が続き、日本でも凶作が続いたりして、通信使を送ることが出来るような状態ではなくなったのだ。
 私は、この朝鮮通信使がずっと幕末まで続いていたら、日本と朝鮮・韓国の関係も、良好な状態を保てたのではないかとと思うのだが、様々な政治的要素があって、そうは行かなくなった。
 実に残念だ。
 江戸時代までの日本人は、これ程までに、朝鮮人の文化をありがたがり、朝鮮のものは何でも良い物と受け止めてきたのである。
 江戸時代末期まで、朝鮮は日本人にとって、尊敬すべき国であってっても、蔑視するとはとんでもないことだったのである。

 では、どうして、日本人は、朝鮮、ついでに中国を蔑視するようになったのか。

 その一つは、江戸中期以後、同じ儒教でも、韓国の朱子学に対して朱子学批判が行われるようになり、幕末維新期には王陽明学派が勢いを持ち、朝鮮の朱子学は古い、と言う意識を持つようになり、同時に、本居宣長, 平田篤胤などが「古事記」「日本書紀」など日本の古代文化、とくに日本固有の「道」を明らかにすることを研究目的とし、学問といえば漢学(儒学)のことと思うことを批判して、国学を成立させてそれが力を持つようになったことが根底にあるようだ。

 しかし、日本人に朝鮮・中国に対する蔑視感を抱かせた最大の張本人は、福沢諭吉だったことに、私は気がついたのだ。

福沢諭吉について4
2009年7月21日(火)@ 22:00 | 雁屋哲の美味しんぼ日記
記事URL:http://kariyatetsu.com/nikki/1133.php
投稿日時 :2009年7月21日(火)@ 22:00

 前回までの、この「福沢諭吉について」の文章を読むと、混乱した感じがする。
 もう一度、私が、この「福沢諭吉について」を書き始めるまでのことをきちんとまとめておこう。
 私はAERAの記事に触発されて、平山洋氏の「福沢諭吉の真実」、井田進也氏の「歴史とテクスト」、安川寿之助氏の「福沢諭吉のアジア認識」「福沢諭吉と丸山真男」「福沢諭吉の戦争論と天皇論」を読んで、平山洋氏と井田進也氏は安川寿之助氏に完膚無きまでに論駁されたと理解し、それで、以前、福沢諭吉の「帝室論」「尊王論」を読んだときの、福沢諭吉に対する私の認識の混乱も解決した、と納得した。
 そのまま満足していたのが、2008年に膝の手術後のリハビリテーションをしている間に、ある時、日本人に朝鮮・中国に対する蔑視感を抱かせた最大の張本人は、福沢諭吉であることに私は気がついたのだ。

 それ以来、私の福沢諭吉に対する興味は燃え上がり、福沢諭吉についての勉強を始めた。
 安川寿之助氏の三冊の本には、福沢諭吉の文章が大量に引用され、また巻末に附録として福沢諭吉の文章が、勘どころをおさえて選ばれて、これまた大量に再録されている。
 その、安川寿之助氏の本の中に再録された福沢諭吉の文章だけでも福沢諭吉について語るのは充分なようであるが、他人の引用した文章、他人が選んだ文章だけでは、自分自身で福沢諭吉の像を造ったとは言えない。
 そこで、私は、

第一巻が1958年に発行された福沢諭吉全集全21巻+別巻(岩波書店刊)
石河幹明著「福沢諭吉伝」全四巻(岩波書店刊)
第一巻が2001年に発行された福沢諭吉著作集全12巻(岩波書店刊)
丸山真男集全17巻(岩波書店刊)
丸山真男「文明論の概略を読む」上・中・下(岩波新書)
 などをはじめ、福沢諭吉に関連する様々な本を買い込んで読みふけった。
 服部氏総、遠山茂樹、杵淵信雄氏らの本も、読んだ。

 もちろん、一介の漫画原作者に福沢諭吉学などある訳が無いから、まず全て「福沢諭吉全集」と、石河幹明の「福沢諭吉伝」を根本に据えた上で、それぞれの研究者の書いた文章を、交錯させて、「福沢諭吉全集」と、石河幹明の「福沢諭吉伝」に照らし合わせるという作業を重ねて、福沢諭吉という人物を掴むようにした。
 同時に明治維新史と1945年までの日本の歴史を重ね合わせると、福沢諭吉という人間の姿が、今までとは違って、大きな形を取ってはっきりと見えてきたのだ。

 色々の人の本を読むと、全く面白い物で、福沢諭吉という一人の人間が、見る人でこんなにも違うのかと不思議だった。
 同時に、福沢諭吉と言うフィルター通してみると、偉い人と思っていた、丸山真男、遠山茂樹、などと言う人の頭の中が見えるような気持ちがした。

 私は、その時点で、この「福沢諭吉について」を書き始めたのである。
 しかし、前回までの文章では、2008年以前、安川寿之助氏の本を読んで満足していたときに考えていたことと、2008年以降自分で勉強を始めてからの考えとがごちゃまぜになっていてすっきりしない。
 私と福沢諭吉とのつきあいは、上に述べたように、2005年にAERAの記事に触発され、平山洋氏、井田進也氏、安川寿之助氏の本を読んだ時に始まり、2008年に本腰を入れて勉強をし出した、と言う順序である。
 この「福沢諭吉について」は、本腰を入れて勉強して、自分自身の福沢諭吉像が出来上がってから、書き始めたのである。
 だが、前回までの、書き方だと、このあたりの流れが混乱しているので、ここに、きちんと整理した。

 したがって、この「福沢諭吉についての話」の初回に、「ここ2年ほど福沢諭吉にとりつかれて困っている」と書いたが、正確には「1年ほど」と言うことになる。
 わずか1年で福沢諭吉と言う人間の像が作れるわけがない、と言う意見もあるかも知れないが、2005年にAERAの記事に始まって、安川寿之助氏の本を読んで以来、私の内部で熟成を続けていたから、短期間に大量の読書が可能で、福沢諭吉についての理解が急速に進んだのだと言える。
 それに、福沢諭吉の文章は漢語こそ難しいが、内容は哲学的に深い意味のある物ではなく、意味を間違えて取りようのないほど明快だから、本格的に取り組めば、誰でも1年あれば、福沢諭吉の像はつかめる。
 むしろ、あんな単純明快な文章で書かれてあることを、どうして丸山真男などは、あんな風にいじくり回して自分に合うような衣装に変えてしまうのか、理解が行かない。
 福沢諭吉の難しさというのは、同じ日に正反対のことを言ったりするところに現れる、どちらが本心なのか分からない点と、変わり身の速さに惑わされる点だけだ。
 私が福沢諭吉を「大きい」というのは、世の中を動かした扇動家としての(啓蒙家ではない)その影響力の「大きさ」を言うのであって、その思想は少しも大きくも深くもない、その時、その時の時世に合わせた物である。
 1万円札の肖像に使われるほど、日本人が福沢諭吉を偉人のように思いこんでしまったのは、丸山真男などが、戦後民主主義を盛り上げるための道具として、福沢諭吉の書いた文章の中の一見民主主義的、自由主義的に思える個所だけを拾いあげて、民主主義的な福沢諭吉像を作り上げ、持ち上げたからだと私は考える。
 書いた人間の品性を疑うしかないようなひどい文章を垂れ流して残している福沢諭吉を、いくら戦後民主主義を盛り上げる道具としてであっても、持ち上げた丸山真男らの罪は大きい。
 私も、2005年までは、それ以前に「帝室論」「尊王論」を読んで、おかしいなあ、とは思いながら、「人の上に人を造らずと言った民主主義的な人間だから、これは何か別の理由があるのだろう」程度に考えて、納得いかないまま1万円札を飾る偉人説を信じていたのだから。

 私は、安川寿之助氏の上記三冊の本を読んで、霧が一気に晴れる思いがした。福沢諭吉という人間の真の姿を安川寿之助氏は見せてくれたと思う。
 それまで興味のなかった福沢諭吉に対して私は非常に興味を抱いた。
 しかし、それは、あくまでも福沢諭吉という人間の思想と生き方に対して興味を抱いただけだった。
 私にとって、相変わらず福沢諭吉は、単なる過去の人物であり、自分自身とは全く関わりのない人間だと思っていたのだ。
 しかし、中国・朝鮮に対する蔑視感を日本人の心に深く植え付けた張本人は福沢諭吉ではないか、と言う考えがひらめいた時から、福沢諭吉は単なる過去の人間でもなく、私に関わりのない人間でもなくなった。
 私は、同時に、初めて「帝室論」と「尊王論」を読んだときのことを思い出したのだ。
 日本を戦争に導いた、天皇崇拝の天皇制を強化したのも福沢諭吉ではないか、と気がついた。
 であれば、福沢諭吉は、過去の人間でもなければ、私自身と関わりのない人間ではない。
 なぜなら、日本は、1945年に終わった戦争の精算をきちんと済ますことが出来ず、それがいまだに日本の重荷になっている。
 その戦争に日本を導く道を付けたのが福沢諭吉であるなら、福沢諭吉は日本にこの重荷をくくりつけた人間として、現在も我々と共に生きている。過去の人間でもなければ、私に関わりのない人間でもない。
 そう気がつくと、本気で福沢諭吉に取り組まなければならないと思ったのだ。

 前回から続いて、福沢諭吉の、中国・朝鮮蔑視に話を進めなければならないが、その前に、福沢諭吉の思想の原点はここにあるのではないかと私が思う所があるので、まず、改めてそこから話を始めよう。

福沢諭吉について5
2009年7月26日(日)@ 23:05 | 雁屋哲の美味しんぼ日記
記事URL:http://kariyatetsu.com/nikki/1136.php
投稿日時 :2009年7月26日(日)@ 23:05

 福沢諭吉は徳川幕府の末期、アメリカに2回、ヨーロッパに1回行っている。
 まず、1860年に、軍艦奉行木村喜毅(芥舟)の従僕として、勝海舟等とともに、咸臨丸に乗ってアメリカに行き、1862年に、幕府渡欧使節随員としてヨーロッパに行き、1867年に、軍艦受取り委員の一行に加わって再びアメリカに行っている。
 福沢諭吉は1834年生まれだから、最初にアメリカに行ったときは26歳である。

 特に、私が強調したいのは、1862年の幕府渡欧使節の際のことである。
 1882年(明治15年)、福沢諭吉は時事新報の発行を始めたが、その3月28日の社説「圧制もまた愉快なる哉(かな)」で、その渡欧使節の旅の途中のことを次のように書いている。(全集第8巻64ページ)
(原文は、漢語混じりの文語体なので、若い人にも分かりやすいように、私が現代文になおした。
 なお、支那と言う言葉が出て来るが、これは、原文の通りにした。
 また、原文に当たってみたいと思う人のために、原文の掲載されている全集のページ数、また、比較的手に入りやい福沢諭吉著作集に入っている場合には、福沢諭吉著作集のページ数を記した。収録されている内容の多さから、私は全集に当たることをお勧めする。ちょっとした図書館なら、おいてあるはずだ。)

「(前略)記者(福沢諭吉)が英国の船で香港に停泊している間に、支那の小商人が靴を売ろうとして船に乗り込んできて、船に乗っている人々にしきりに勧めるので、記者も一足靴を買おうと思って、値段をかけあい、船に乗っていて暇なのでわざと手間取って談判していたら、そばにいた英国人が、また例の支那人の狡猾、とでも思ったのか、手早くその靴を取って記者に渡し、2ドルばかりを記者に出させて、それを支那人に与え、ものをも言わず杖でもって支那人を船から追出したので、支那人は靴の値段の高い安いを論じることも出来ず、一言もなく、恐縮しているばかりだった。
 外国人のことなので、記者はこの始末を傍観して、深く支那人を哀れむのでもなく、英国人を憎むのでもなく、ただ英国人民の圧制をうらやむほかはなかった。
 英国人が東洋諸国を横行するのはまるで無人の里にあるが如くだった。昔、日本国中に幕府の役人が横行していたが、それよりも一層の威力と権力を振るっていて、心中定めて愉快なことだろう。
 我が帝国日本も、幾億万円の貿易を行って幾百千艘の軍艦を備え、日章旗を支那印度の海面に翻して、遠くは西洋の諸港にも出入りし、大いに国威を輝かす勢いを得たら、支那人などを御すること英国人と同じようにするだけでなく、その英国人をも奴隷のように圧制して、その手足を束縛しよう、と言う血気の獣心を押さえることが出来なかった。
 そうであれば、圧制を憎むのは人の性だというが、人が自分を圧制するのを憎むだけで、自分自身圧制を行うことは人間最上の愉快といっていいだろう。
(中略)こんにち、我が輩が外国人に対して不平を抱いているのは、いまだに外国人の圧制を受けているからである。我が輩の願いは、この圧制を圧制して、世界中の圧制を独占したいと言うことだけである」(「記者」と「我が輩」の混用は原文のまま)

 また12月7日から12日まで連載した社説「東洋の政略はたして如何せん」の11日の分に、次のようなことを書いている。(全集第8巻436ページ。著作集第8巻230ページ)

「(前略)およそ人として権力を好まない物はない。人に制止られるのは人を制する愉快に及ばない。言葉を酷にして言えば、圧制を我が身に受ければこそ憎むべしと言うが、自分で他を圧制するのははなはだ愉快だと言うこと出来る。
 道徳の点から論ずるとその心情はなはだ不良な物に似ているが、世界始まって以来今に至るまでそれが普通の人情であり、殊に、風俗習慣を異にする外国人との交際においては、最もその事実を見るに違いない。
 我が輩は10数年前何度か外国に往来して欧米諸国在留の時、ややもすれば当地の人達の待遇が厚くないことに不愉快を覚えた事が多かった。
 ヨーロッパを去って、船に乗ってインド海に来た。
 英国の人間が海岸所轄の地に上陸し、または支那その他の地方においても権力と威力を振るって、土人(現地の人間に対する蔑視用語。当時の日本では普通に使われていた)を御するその状況は傍若無人、殆ど同等の人類に接する物と思われず、当時我が輩はその有様を見て、ひとり心に思ったことは、印度支那の人民がこのように英国人に苦しめられるのは苦しいことであるが、英国人が威力と権力をほしいままにするのはまた甚だ愉快なことだろう、一方を哀れむと同時に一方をうらやみ、私も日本人だ。いつか一度は、日本の国威を輝かせて印度・支那の土人らを御すること英国人を見習うだけでなく、その英国人も苦しめて東洋の権柄を我が一手に握ってやろうと、壮年血気の時に、密かに心に約束して、いまだに忘れることが出来ない。(後略)」

 私は最初この文章を読んだ時、あまりのことに、気が動転した。
 福沢諭吉は、イギリス人が中国人に圧制を加え、人間扱いしないのを見て、圧制を加えるイギリス人を羨み、自分も何時かはイギリス人のように印度・中国の人間に対してイギリス人のように圧制を加えたい。さらには、イギリス人をも自分の奴隷のようにして圧制を加えて、東洋の権柄を我が一手に握りたい、思う。
 いや世界中の圧制を独占したい。人に圧制を加えられるのはいやだが、人に圧制を加えるのは人生最大の愉快だろう、と言う。
 こんな事は、冗談にも言ってはいけないことだろう。冗談でない証拠に、二度にわたって同じことを書いているのだから、本気なのだろう。
 これが、「明治政府のお師匠様」を自認しているのだから、明治政府がどんな政府だったか想像がつくという物だ。

 福沢諭吉は、晩年の「福翁自伝」で次のように言っている。(全集第7巻248ページ。著作集第12巻387ページ)

「(前略)この国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で(後略)」

この福翁自伝の言葉は、先に挙げた「圧制もまた愉快なるかな」と「東洋の政略はたして如何せん」に書かれた言葉を晩年になって再確認した物である。

 28歳の時に、福沢諭吉は欧州旅行の際に、イギリス人が印度人中国人を人間とも思えないひどい扱いをしているのを見て、次のように思った。

アジア人に圧制を加えることの出来るイギリス人がうらやましい。
日本も何時か、イギリスのようにアジア人に対して圧制を行えるような国にしたい。
さらに、そのイギリス人をも、自らの圧制の下に置きたい。
 簡単に言うならば、
「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制に置くような、そんな国に日本をしたい」
これが、「福翁自伝」に書かれた「大本願」なのである。

 強者にいじめられている弱者を見ても助けようとは思わず、返って、強者と同じようにその弱者をいじめたいと思い、さらには、今弱者をいじめている強者も、そのうちに自分がいじめてやりたい。
 図式的に言うとそうなる。

 1862年、28歳の時に「心に約束した」事を、1882年48歳になっても福沢諭吉はその通りに書く。
 1862年当時、欧米に比べると日本は経済・文化、全ての面で、大きく遅れていた。
 帰国してから、西洋文化一辺倒になったところを見ても、福沢諭吉が欧米の文化から大きな衝撃を受けたことは明らかだ。
 当時の福沢諭吉は(福沢諭吉に限らず日本人一般)、自然科学、社会科学の面から言えば、西欧人と比べると、子供同然だろう。
 福沢諭吉がこの大本願を立てるに至ったのは、丸山真男風に言えば、「ませた子供が、悪い大人の行状を見て、それをまねして不良化した」と言えなくもない。
 だが、子供の時に受けた衝撃が生涯の行動を支配する、と言う説もある。
 ただ、人がいじめられているのを見て、自分もいじめたい、と考えるのはかなり特殊な人間だと私は思う。人に圧制を加えることが人生最大の愉快、などと言うのは、嗜虐趣味、サディストではないか。
 しかし、それが、真実の福沢諭吉なのである。

 私は福沢諭吉が28歳の時に経験したこと、その時に思ったことが終生福沢諭吉を支配していたと思う。
 まさに、「大本願」に支配されていたのだ。

 その「大本願」が、福沢諭吉の思想の原点だと考えると、その後の、福沢諭吉の言うことがどんなにころころ変わっても、福沢諭吉とは何者なのか見失うことはない。
 これから、私は、この福沢諭吉の大本願について何度か言及する。
 読者諸姉諸兄に置かれては、この「福沢諭吉の大本願」を福沢諭吉の思想の原点として心にとどめて、これから先の私の文章をお読みいただくようお願いしたい。

 福沢諭吉について、実に多くの本が出ている。
 しかし、みんな福沢諭吉の云うことがころころ変わるそこの所にいちいち気をとられて道に迷っている。
 福沢諭吉の目的は、「大本願」の成就である。
 その「大本願」成就のためなら、時世に合わせて、何でも言うのである。
 時世に合わせてその時々に違うことを言う福沢諭吉の言葉をいちいち真に受けていては、混乱するだけである。

「福翁自伝」をよむと、福沢諭吉は実に大変な男であることが分かる。才があって頭が切れて、度胸が良く、大変な勉強家・努力家である。多くの人を引きつける魅力を持った人物だった事は間違いない。「福翁自伝」は実に面白い。自伝としては第一級の物だ。
 福沢諭吉は慶應義塾を作り、自分の弟子をアメリカに送って農園作りをさせたり、時事新報という新聞社を作ったり、単なる思想家に留まらず社会的に大きな働きをした。
 たしかに、260年続いた徳川幕府の封建制度の後で、福沢諭吉の西洋文明を持込んだ「文明開化」思想が、日本の社会に大きな影響を与えた功績は大きい。
 ただ、それは、西欧文化の紹介者であり、翻訳家としての功績であって、福沢諭吉自身は世界に通用する普遍的な思想を作り出した思想家ではない。(もっとも、そんな思想家は日本には一人も存在したことはないが)
 福沢諭吉は生涯に大量の文章を書いたが、端から並べてみると、「大本願」がその中心を貫いていることが分かる。
 殆ど全てが、目の前の「今」に向かっての言葉である。従って、状況が変われば、言うことも違う。
 しかし、違うことを言っているようであってもその意図は「大本願成就」で貫かれている。
 一つ一つの文章のベクトルを合成すると、「大本願」成就のためという、一本の大きなベクトルが出来上がる。

 身も蓋もない言い方をすれば、福沢諭吉は屋台のバナナの叩き売りと同じで、あれこれ面白い口上を言うが、それは結局福沢諭吉のバナナを買わせるのが目的である。
 バナナの叩き売りの口上には、矛盾もあれば前に言ったことと正反対のことも平気で混ざる。
 その口上を面白がって聞いている分にはいいが、真に受けて何か真剣な意味でもあるのではないかと考え始めると、頭がおかしくなる。
 バナナの叩き売りの目的はバナナを売りつけることだと早く見極めを付けることだ。
 その見極めを付けられなかったのが、戦後の進歩的知識人たちだ。
 福沢諭吉はバナナの叩き売りである。叩き売りの口上が下品だったり、偏見に満ちていても、それは客を引きつけるためだから仕方がない。
 しかし、売りつけるバナナがひどかったらこれは問題だ。
 私は福沢諭吉の売りつけるバナナ、すなわち「福沢諭吉の大本願」はひどすぎると思うのだ。
 先に挙げた丸山真男など、福沢諭吉を「近代的民主主義者」と言って持ち上げた戦後の進歩的知識人たちは、福沢諭吉の叩き売りの口上に煙に巻かれて、福沢諭吉がどんなバナナを売っているのか分からなくなった人達だ。

福沢諭吉について6
2009年8月10日(月)@ 14:11 | 雁屋哲の美味しんぼ日記
記事URL:http://kariyatetsu.com/nikki/1142.php
投稿日時 :2009年8月10日(月)@ 14:11

 前回で、私は福沢諭吉の「大本願」について書いた。
 念のために繰返しておくと、「福沢諭吉の大本願」とは、「兵力を強くして、貿易を盛んにし、アジアを圧制し、イギリスなども自らの圧制の下に置くような、そんな国に日本をしたい」と言うことである。
 28歳の時に福沢諭吉はこの「大本願」を打ち立てた。

 福沢諭吉は以前言ったことと正反対のことを言うことが多く、それで、多くの人間は、福沢諭吉はある時点から転向したとか、考えが変わったとか言うが、それはその時々の福沢諭吉の言葉に目くらましを受けているからであって、福沢諭吉は大本願成就のために、時に応じて自在に言うことを変える。言う事を変えるだけで、根本の考えは変わっていない。
 例えば、1872年(明治5年)に発行した「学問のすすめ」初編の冒頭近くで、

「実語教に、人は学ばなければ智恵がつかない、智恵のないものは愚かな人間である、とある。であれば、賢い人と愚かな人との違いは、学んだか学ばなかったによって出来るものだ。」(全集第12巻29ページから。著作集第3巻6ページから)
 と言い、次のように続ける。

「ことわざに言う、天は富貴を人に生まれながら与えるのではなく、その人の働きによって与えるのである。そうであれば、前にも言った通り、人は生まれながらに貴賤貧富の区別はない。ただ、学問で努力をして物事を良く知る者は貴人となり、富人となり、無学の者は貧しい人間となり、下人となるのだ」

 これを読むと、学問をすれば、身分が高くなり(身分などと言う言葉自体問題だが)、豊かになる、と読者は考えるのが自然だ。

 ところが、1889年(明治22年)に時事新報社の社説に書いた「貧富痴愚の説」では、

「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」(全集第12巻62ページから)

 と言い、智恵があるのにそれを生かす財力がなく貧しいと、貧乏という名の鎖に繋がれた猫の仔同然で、実に哀れである、と続け、更に次のように言う。

「貧しくて智恵のある者は他に鬱憤を晴らすしか道が無く、そこで世の中の仕組みの全てを不公平であるとして、しきりにこれに対して攻撃を試み、財産私有制度を廃止しろと言い、田地田畑を共有のもにするべきだと言う。ストライキ、社会党、虚無党(ニヒリスト)、などその原因となるのは貧しくて智恵のある者であることは明かである。(中略)貧しい人間に教育を与える事の利害は、考えなければならないことである」
と続け、

「ある人が言うには、知識は富のもとであり、智恵がなければ富を得ることが出来ない。英国の富貴も知識の成せるものであり、米国の繁盛も教育に原因するものである。我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければならず、知能を得ることは金を得ることに等しいなどと言って、しきりにはやし立てる者がいるが、この説は、いわゆる教育家の間で行われる方便の言葉であり、世の中の実際は、必ずしもそうであるとは見えない」

 と言う。

 もう一つ、1891年(明治24年)に書かれた、「貧富論」を見てみよう。
 まず、冒頭で、

「経済論者の言に、人生の貧富は智恵があるかないかによるもので、人間は学ばなければ智恵がつかない、無智の人間は貧しくなる、教育は富を積む本となるとして、貧富の原因は全てその人間に智恵があるか、あるいは愚かであるかに帰する、と言うのがある。
この言葉には一理あるが、貧民の多数を平均すれば、大抵智恵に乏しい者であり、事の原因と結果を相照らして子細に社会の実際を見れば、今の世の中の貧民は無智であるが故に貧しいのではなく、貧しいが故に無智なのであると言っても差し支えない場合が少なくない。」(全集第13巻69ページから。著作集には入っていない)

 と言い、更に、経済論者の言うように、富を築くのは知恵の働きで、智恵は教育によって得られるものであるが、衣食にも窮する貧乏人は教育を受けることが出来ないし、教育を受けても衣食に窮していてはその智恵も役に立たないと続け、次のように言う。

「衣食こそ智力を生み出し活用する本となるものであるのに、その基本を問わずに、結果を論じて、智力があれば衣食が豊かになると言って、人の無教育をとがめるのは、因果の順序を本末転倒して無理なことを言って責めるものと言うべきである」

「貧富痴愚の説」の「ある人」と、「貧富論」の「経済論者」というのは、「学問のすすめ」を書いた福沢諭吉自身ではないか。
「貧富痴愚の説」と「貧富論」では福沢諭吉を福沢諭吉自身が否定しているのである。
 たいていの人は、「学問のすすめ」は知っていても、「貧富痴愚の説」と「貧富論」は知らないから「貧富痴愚の説」と「貧富論」を読むとひっくり返るほど驚くだろう。
 しかし、驚くのは、福沢諭吉のことを良く知らないからだ。
「学問のすすめ」初編と「貧富痴愚の説」「貧富論」は反対のことを言っているようだが、福沢諭吉自身は「大本願」成就の道筋に沿っていると考えていただろう。

「学問のすすめ」を書いたのが1872年、「貧富痴愚の説」を書いたのが1889年、「貧富論」を書いたのが1891年。
 1872年と1889年、1872年と1891年、とそれぞれ17年と19年の開きがあるがある。
 明治5年から17年、19年の内に、日本の社会の状況は大きく変わった。
 明治5年の段階で日本は徳川時代260年の鎖国の眠りから覚めて開国したばかりで、欧米に比べて、科学、社会学面で非常に遅れていた。その遅れを取り戻して、福沢諭吉28歳のときの「大本願」を成就するためには、即ち上記「貧富痴愚の説」にあるように、
「我が日本の富貴強大を望むなら、まず我が人民を教えて、その知能を発達させなければなら」
 ないと考え、「学問のすすめ」を書いて、人々に学問をすることの意義を説いたのだ。
 それから17年、19年経った。
 その間に、自由民権運動が起こり、1892年には国会が開設されることになった。
 勉強すると社会の矛盾が見えてくる。それで、矛盾を失くそうと運動を始める人間が出て来る。
 国会開設を前にして様々な政治活動が行われる。
 そのような、社会の状態を見て、これでは、国がバラバラになって自分の「大本願」が成就されないと福沢諭吉は危機感を抱いたのだろう。
貧富論の中で福沢諭吉は次のようなことも言っている。

「既に国を開いて海外と文明の面で争い、国際競争の中で国家の生存を計るためには、国内の不愉快はこれをかえりみる暇はない。
たとえ、国民の間に貧富の格差が大きくなって、貧しい者は苦しみ豊かな者は楽をするという不幸があっても、それには目をつぶって忍び、富豪の大なる者をますます大ならしめて、商業上の国際競争に負けないようにすることこそ、急務である」(全集第13巻93ページ)

 なんだか、この話は最近聞いたことがないか。
 そう、元首相小泉某とその経済担当大臣竹中某が行った、構造改革という奴だ。
 大企業の税を軽くし、それに加えて大会社がその時の必要に応じて人を雇ったり解雇したり出来るように、しかも、大企業がその臨時に雇った人間の保険など負担をしないで済むように、労働者派遣法を改正して大企業が安易な派遣切りが出来るような状態を作った。
 その目的は、福沢諭吉と同じ、大企業を更に大きくして日本を国際競争に勝たせようと言う物である。
 大企業と、ファンドマネージャーなどが巨利を得て、派遣社員が派遣切りをされて貧困にあえいでも、それは国際競争の役に立つから目をつぶる。
 福沢諭吉は実に日本の社会の先覚者である。

 福沢諭吉は「大本願」成就が目的だから、教育のために社会的に目覚めて、不平等を解消しろなどと言う人間は、富豪(大企業)を更に強大化して日本が国際競争に勝つという福沢諭吉の「大本願」の実現の妨げになると考えた。
 それで、
「これ以上貧しい人間に教育を与えるな」
 と主張するのである。
 福沢諭吉にとっては、何事も車を運転するような物である。
 目的地に到達するまでに、道路事情によっては、左に曲がり、右に曲がらなければならいことがある、後退することもある。しかし、ちゃんと目的地に向かっているのであって、曲がろうと後退しようと、目的地に到達するのを実現させるためのことだから、全く頓着しないのである。

 不思議なことに、多くの論者が、福沢諭吉はこの「大本願」を成就することに全てを賭けていると言うことを見のがしている。
 福沢諭吉が左右に曲がったり、後退する度に、やれ、福沢諭吉は変わったとか、「思想の骨格が入れ替わった(遠山茂樹・「福沢諭吉」260ページ)とか言うが、福沢諭吉自身は自分が変わったとか変節したとか、そんなことは夢にも思っていない。
 同時代の人間の中には福沢諭吉の変節を批判する人間もいたが、福沢諭吉は歯牙にもかけない。
「福翁自伝」の後半を読めば、福沢諭吉が高らかに勝利の凱歌を歌っていることが分かるだろう。
 日清戦争に勝ったあと、文明富強を(まだまだ序の口であるが)成し遂げたと思った福沢諭吉は、次のように言っている。

「とにかく自分の願に掛けていたその願が、天の恵み、祖先の余得によって首尾良く叶うことが出来たからには、私のためには第二の大願成就と言わねばならぬ。」(全集第7巻259ページ 著作集第12巻403ページ)

 第一の本願とは、

「私は洋学を修めて、その後どうやらこうやら人に不義理をせずに頭を下げぬようにして、衣食さえ出来れば大願成就と思っていた」

 と言うことなのだが、これは、福沢諭吉の個人的な生活に関することであるので、前にも言ったように、その前の部分に、

「この日本国を兵力の強い商売繁盛する大国にしてみたいとばかり、それが大本願で」(全集第7巻246ページ 著作集第12巻387ページ)

 とあるその第二の大願こそ、福沢諭吉の「大本願」であると、私は考える。
 たいていの人は、福沢諭吉の本は「学問のすすめ」の初篇だけ、しかも、冒頭の部分しか読まない。(「学問のすすめは」全部で13篇ある。初編の復刻版を見た限りでは、版型も小さく薄く、本と言うよりパンフレットに近い)
 そして、丸山真男に代表される戦後の知識人たちがやたらと福沢諭吉を「近代的民主主義者」などと、はやすので、大部分の日本人は、その通り信じ込んでいる。
「近代的民主主義者」が「貧富論」のようなことを言うだろうか。

 特にあきれるのは、丸山真男である。
 丸山真男と福沢諭吉の「大本願」については、次回で。