本七平『現人神の創作者たち』1982 文藝春秋
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山本七平をどのように評価するかという作業が黙過されている。これはよくない。
 山本七平はイザヤ・ベンダサンの筆名で『日本人とユダヤ人』を世に問うて以来、一貫して問題作を書きつづけてきた。その論旨には山本七平学ともいうべき ものがあったにもかかわらず、ほとんど軽視されている。在野の研究者だからといって、これはよくない。論旨の内容の検討を含めて議論されるべきだ。
 ぼくは二度ばかり山本さんと会って、これは話しにくい相手だと感じた。屈折しているのではないだろうが、世間や世情というものをほとんど信用していな い。そのくせ、山本七平の主題は日本社会のなかで世間や世情がどのように用意され、どのように形成されてきたのかということなのである。
 こういうところが山本七平を議論させにくくさせているのかもしれないが、だからといって放っておかないほうがよい。丸山真男・橋川文三・松本健一とともに、そのホリゾントの中で評価されたほうがいい。

 ここでは『現人神(あらひとがみ)の創作者たち』を採り上げることにした。
 最初は日本通史を試みた『日本人とは何か』や、貞永式目が打ち出した道理の背景を探った『日本的革命の哲学』、最も“山七”らしいともいうべき『空気の 研究』などにしようかと思ったのだが、本書のほうがより鮮明に日本人が抱える問題を提出していると思われるので、選んだ。山本の著書のなかでは最も難解 で、論旨も不均衡な一書でもあるのだが、あえてそうした。

 本書の意図はいったい尊皇思想はどのように形成され、われわれにどのような影を落 としているのかを研究することにある。議論の視点は次の点にある。徳川幕府が開かれたのである。これは一言でいえば戦後社会だった。北条執権政治このかた 300年ほど続いた内戦と秀吉の朝鮮征討という無謀な計画の挫折に終止符を打ったという意味での、戦後社会である。
 このとき幕府は藤原惺窩や林羅山らを擁して儒教儒学を政治思想に採り入れようとしたのだが、要約していえば中国思想あるいは中国との“3つの交差”をな んとかして乗り切る必要があった。慕夏主義、水土論、中朝論、だ。いずれも正当性(レジティマシー)とは何かということをめぐっている。

 慕夏主義というのは、日本の歴史や特色がどうだったかなどということと関係なく、ある国にモデルを求めてそれに近づくことを方針とする。
 ある国をそのモデルの体現者とみなすのだ。徳川幕府にとってはそれは中国である。戦後の日本がアメリカに追随しつづけているのも一種の慕夏主義(いわば慕米主義)だ。“その国”というモデルに対して「あこがれ」をもつこと、それが慕夏である。かつては東欧諸国ではソ連が慕夏だった
 なぜこんな方針を「慕夏主義」などというかというと、金忠善の『慕夏堂文集』に由来する。金忠善は加藤清正の部下で朝鮮征討軍にも加わった武将だが、中 国に憧れて、日本は中国になるべきだと確信した。第1段階で朝鮮になり、ついで中国になるべきだと考えた。それを慕夏というのは、中国の理想国を「夏」に 求める儒学の習いにしたがったまでのこと、それ以上の意味はない。
 この慕夏主義のために、幕府は林家に儒教や儒学をマスターさせた。林家の任務は中国思想や中国体制を国家の普遍原理であることを強調することにある。

 しかし、慕夏主義を体制ができあがってから実施しようというのには、いささか無理 がある。徳川幕府の体制の根幹は、勝手に家康が覇権を継承して武家諸法度や公家諸法度を決めたということにはなくて、天皇に征夷大将軍に任ぜられたという ことを前提にしている。そこに”筋”がある。
 けれども、その徳川家の出自は三河岡崎の小さな城主にすぎず、それをそのまま普遍原理にしてしまうと、天草四郎も由井正雪も誰だってクーデターをおこし て将軍になれることになって、これはまずい。それになにより、中国をモデルにするには日本の天皇を中国の皇帝と比肩させるか、連ねるかしなければならない。そしてそれを正統化しなければならない。
 どうすれば正統化できるかというと、たとえば強引ではあってもたとえば「天皇は中国人のルーツから分家した」というような理屈が通ればよい。
 これは奇怪至極な理屈だが、こういう論議は昔からあった。たとえば五山僧の中厳円月は「神武天皇は呉の太伯の子孫だ」という説をとなえたが容れられず、 その書を焼いたと言われる。林家はそのような議論がかつてもあったことを持ち出して、この「天皇正統化」を根拠づけたのである。
 こうして「慕夏主義=慕天皇主義」になるような定式が、幕府としては“見せかけ”でもいいから重要になっていた。林家の儒学はそれをまことしやかにするためのロジックだった。

 一方、日本の水土(風土)には儒教儒学は適用しにくいのではないかというのが、「水土論」である。熊沢蕃山が主唱した。
 蕃山は寛永11年に16歳で備前の池田光政に仕え、はじめは軍学に夢中になっていたのだが、「四書集注」に出会って目からウロコが落ちて、武人よりも日 本的儒者となることを選んだ。そして中国儒学(朱子学)では日本の応用は適わないと見た。また、参勤交代などによって幕府が諸藩諸侯に浪費を強要している バカバカしさを指摘して、士農工商が身分分離するのではなく、一緒になって生産にあたるべきだと考えた。いわば「兵農分離以前の社会」をつくるべきだと 言ったのだ。
 これでわかるように、水土論は儒学を利用し、身分社会を堅めようとしている幕府からすると、警戒すべきものとなる。

 ただ、蕃山の晩年に明朝の崩壊と清朝の台頭がおこった。これで中国の将来がまったく読めなくなった。加えてそこに大きな懸念も出てきた。ひとつは中国(清)が日本にまで攻めてこないかという恐れである。元寇の再来の危険だ。これは幸いおこらなかった。鎖国の効用である。
 もうひとつは明朝帝室の滅亡によって、本家の中国にも「正統」がなくなったことをどう解釈すべきかという問題が降ってわいた。これは慕夏主義の対象とな る「夏のモデル」が地上から消失したようなもので、面食らわざるをえなかった。ソ連が消滅したので、突然に東欧諸国や社会党・共産党の路線に変更が出てく るようなものなのだが、徳川時代ではそこに新たな理屈が出てきた。
 これをきっかけに登場してくるのが「中朝論」なのである。山鹿素行の『中朝事実』の書名から採っている。

 中朝論は、一言でいえば「日本こそが真の中国になればいいじゃないか」というものだ。
 もはや中国にモデルがないのなら、日本自身をモデルにすればよい。つまり「中華思想」(華夷思想)の軸を日本にしてしまえばいいという考え方だ。これな ら日本の天皇は中国皇帝から分かれたとか、古代神話をなんとか解釈しなおして中国皇帝と日本の天皇を比肩させるという変な理屈でなくてもいい、ということ になる。
 これはよさそうだった。そのころは林道春の“天皇=中国人説”なども苦肉の策として提案されていたほどだったのだが、日本こそが中華の軸だということに なれば、それを幕府がサポートして実現していると見ればよいからだ。
 それには中国発信の国づくりの思想の日本化だけではなく、中国発信の産業や物産の”日本化”も必要になる。そこで幕府はこのあと国産の物産の奨励に走 り、これに応えて稲生若水の国産物調査や貝原益軒の『大和本草』がその主要プロジェクトになるのだが、中国の本草学(物産学)のデータに頼らない国内生産 のしくみの特徴検出やその増進の組み立てに向かうことになったのである。
 これが「実学」だ(吉宗の政治はここにあった)。とくに物産面や経済施策面では、これこそが幕府が求めていた政策だったと思われた。

 けれども、そのような引き金を引いたもともとの中朝論をちゃんと組み立ててみよう とすると、実は奇妙なことがおこるのである。 それは、「中華=日本」だとすると、日本の天皇が“真の皇帝”だということなのだから、もともと中国を中心 に広がっていた中華思想の範囲も日本を中心に描きなおさなければならなくなってくるという点にあらわれる。つまり、話は日本列島にとどまらなくなってしま うのだ。
 それでどうなるかというと、日本の歴史的発展が、かつての中華文化圏全体の本来の発展を促進するという考え方をつくらなければならなくなってくる。まことに奇妙な理屈だ。
 しかしながら、これでおよその見当がついただろうが、実はのちのちの「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」や「五族協和」の考え方のルーツは、この中朝論の拡張の意図にこそ出来(しゅったい)したというべきなのである。日本が中心になって頑張ればアジアも発展するはずだ、日本にはそのようなアジアの繁栄の責任も権利もあるはずだというような、そういう考え方である。
 もっとも、幕藩体制を固めている時期には、まだそこまでの“構想”は出ていなかった。ともかくも中国軸に頼らない日本軸が設定されるべきだという議論が 確立されてきたというだけだった。「中国離れ」はおこったのだが、それは政治面と経済面では、まったく別々に分断されてしまったのだ。
 
 以上のように、これら慕夏主義・水土論・中朝論という3つの交差が徳川社会の背景で進行していたのである。
 これらのどこかから、あるいはこれらの組み合わせから、きっと尊皇思想があらわれたにちがいない。山本七平の議論はそのように進む。
 当面、徳川幕府としては「幕府に刃向かえなくなること」と「幕府に正統性があること」を同時に成立させてくれるロジックがあれば、それでよかった。まだ 黒船は来ていないからである。いや、この時期、危険の惧れはもうひとつあった。個人のほうが反抗をどうするかということだ。実際にはこちらの危惧のほうが 頻繁だった。服部半蔵やらお庭番やらの時代劇で周知のとおり、幕府はこの取締りに躍起になる。

 幕府のような強大なパワーにとって、ちっぽけな個人の反抗などがなぜ怖いのか。
 山本七平が適確な説明をしている。「その体制の外にある何かを人が絶対視し、それに基づく倫理的規範を自己の規範とし、それ以外の一切を認めず、その規範を捨てよと言われれば死をもって抵抗し、逆に、その規範が実施できる体制を求めて、それへの変革へと動き出したら危険なはずである」。
 いま、アメリカがイスラム過激派のテロリズムに躍起になっていることからも、この山本の指摘が当を得ているものであったことは合点できるであろう。
 しかも日本では、この死を賭した反抗や叛乱が意外に多いのだ。歴史の多くがこの反抗の意志によって曲折をくりかえして進んできたようなところがあった。 たとえば平将門から由井正雪まで、2・26事件から三島由紀夫まで。
 日本にこのような言動が次々にあらわれる原因ははっきりしている。日本は「神国」であるという発想がいつでも持ち出せたからである。実際には神話的記録 を別にすれば、日本が神国であったことはない。聖徳太子以降は仏教が鎮護国家のイデオロギーであったのだし、第409夜の高取正男の『神道の成立』第777夜の黒田俊雄の『王法と仏法』にも述べておいたように、神道だけで日本の王法を説明することも確立しなかった。
 しかしだからこそ、いつでもヴァーチャルな「神国」を持ち出しやすかったのである。それは体制側が一番手をつけにくいカードだったのである。

 ところが、ここに一人の怪僧があらわれて山王一実神道というものを言い出した。家康の師の天海だ。これは、すでに中世以来くすぶっていた山王神道を変形させたものだったが、幕閣のイデオロギーを言い出したところに面倒なところがあった。
 天海は結果としては、家康を“神君”にした。これでとりあえずは事なきをえたのだが(後水尾天皇の紫衣事件などはあったが)、しかしそのぶん、この“神 君”を天皇に置き換えたり、また民衆宗教(いまでいう新興宗教)の多くがそうであるのだが、勝手にさまざまな“神君”を持ち出されては困るのだ。のちに出 口王仁三郎の大本教が政府によって弾圧されたのは、このせいである。
 考えてみれば妙なことであるけれど、こうして徳川幕府は「神のカード」をあえて温存するかのようにして、しだいに自身の命運がそのカードによって覆るか もしれない自縄自縛のイデオロギーを作り出していたのであった。

 幕府の懸念とうらはらに、新たな一歩を踏み出したのは山崎闇斎だった。
 闇斎は仏教から出発して南村梅軒に始まる「南学」を学んだ。林家の「官学」に対抗する南学は、闇斎のころには谷時中や第741夜に紹介した野中兼山らによって影響力をもっていたが、闇斎はそこから脱自して、のちに崎門派とよばれる独得の学派をなした。これは一言でいえば、儒学に民族主義を入れ、そこにさらに神道を混合するというものだった。
 闇斎が民族主義的儒者であったことは、「豊葦原中ツ国」の中ツ国を中国と読んで「彼も中国、我も中国」としたりするようなところにあらわれている。また 闇斎がその儒学精神に神道を混合させたことは、みずから「垂加神道」(すいかしんとう)を提唱したことに如実にあらわれている。闇斎は仏教を出発点にして いながら、仏教を排除して神儒習合ともいうべき地平をつくりだしたのだ。闇斎は天皇をこそ真の正統性をもつ支配者だという考え方をほぼ確立しつつあったの だ。
 闇斎が仏教から神道に乗り換えるにあたって儒学を媒介にしたということは、このあとの神仏観や神仏儒の関係に微妙な影響をもたらしていく。そこで山本七 平はさらに踏みこんで、この闇斎の思想こそが明治維新の「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだったのではないかとも指摘した。実際にも闇斎の弟子でもあった保 科正之は、幕閣の国老(元老)という立場にいながら、たえず仏教をコントロールしつづけたものである。

 闇斎の弟子に佐藤直方(なおかた)と浅見絅斎(けいさい)がいた。直方は師の神道主義に関心を見せない純粋な朱子学派であったが、絅斎は表面的には幕府に反旗をひるがえすようなことをしないものの、その『靖献遺言』において一種の“政治的な神”がありうることを説いた。
 内容から見ると、『靖献遺言』は中国の殉教者的な8人、屈原・諸葛孔明・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺らについての歴史的論評である。書いてあることは中国の志士の話にすぎない。
 が、この1冊こそが幕末の志士のバイブルとなったのである。どうしてか。
 山本はそこに注目して『靖献遺言』を読みこみ、絅斎が中国における“政治的な神”を摘出しながらも、そこに中国にはなかった「現人神」(あらひとがみ) のイメージをすでにつくりだしていたことを突き止めた。
 いったい絅斎は何をしたのだろうか。本当に、現人神の可能性を説いたのか。そうではない。慕夏主義や中朝論や、闇斎の神儒論はそれぞれ正当性(レジティ マシー)を求めて議論したものではあったが、絅斎は『靖献遺言』を通して、その原則通りの正統性が実は中国の歴史にはないのではないかということを説き、 それがありうるのは日本の天皇家だけであろうことを示唆してみせたのだ。
 では、仮に絅斎の示唆するようなことがありうるとして、なぜこれまでは日本の天皇家による歴史はそのような“正統な日本史”をつくってこなかったのか。 それが説明できなければ、絅斎の説はただの空語のままになる。
 で、ここからが重要な“転換”になっていく。
 絅斎は、こう考えたのだ。たしかに日本には天皇による正統な政治はなかったのである。だから、この歴史はどこか大きく誤っていたのだ。だからこそ、この 「誤りを糺す」ということが日本のこれからの命運を決することになるのではないか。こういう理屈がここから出てきたわけなのだ。

 これは巧妙な理屈だろうか。そうともいえる。不可解なものだとも見える。
 が、その一方でこれは、「漢倭奴国王」このかた切々と中国をモデルにしてきた日本人が、ついにその軛(くびき)を断って、ここに初めて新たな歴史観を自 国に据えようとしているナマの光景が立ち現れているとも見るべきなのだろう。
 むろん事は歴史観に関することなので、ここには精査な検証がなければならない。日本の歴史を中国の歴史に照らして検証し、それによって説明しきれないと ころは新たな歴史観によって書き直す必要も出てきた。
 この要請に応えたのが、水戸光圀の彰考館による『大日本史』の執筆編集である。明暦3年(1657)に発心し、寛文12年(1672)に彰考館を主宰し た。編集長は安積(あさか)澹泊、チーフエディターは栗山潜鋒と三宅観瀾。この顔ぶれで何かが見えるとしたらそうとうなものであるが、安積澹泊はかの明朝 帝室から亡命した日本乞師・朱舜水(第460夜参照)の直接の弟子で、新井白石や室鳩巣の親友だったし、栗山潜鋒は山崎闇斎の孫弟子で、三宅観瀾はまさに浅見絅斎の弟子で、また木下順庵の弟子だった。
 しかも、この顔ぶれこそは「誤りを糺す」ための特別歴史編集チームの精鋭であるとともに、その後の幕末思想と国体思想の決定的なトリガーを引いた「水戸学」のイデオロギーの母型となったのでもあった。
 もっともこの段階では、水戸学とはいえ、これはまだ崎門学総出のスタートだった。

 安積澹泊の記述に特色されることは、ひとつには天皇の政治責任に言及していることである。「天皇、あなたに申し上げたいことがある」という言い方は、ここに端緒していた。
 この視点は、栗山潜鋒の『保建大記』では武家政権の誕生が 天皇の「失徳」ではないかというところへ進む。「保建」とは保元と建久をさす。つづく三宅観瀾の『中興鑑言』もまた後醍醐天皇をふくむ天皇批判を徹底し て、その「失徳」を諌めた。これでおよその見当がつくだろうが、“天皇を諌める天皇主義者の思想”というものは、この潜鋒と観瀾に先駆していた。
 しかしでは、天皇が徳を積んでいけば、武家政権はふたたび天皇に政権を戻すのか。つまり「大政奉還」は天皇の徳でおこるのかということになる。
 話はここから幕末の尊皇思想の作られ方になっていくので、ここからの話はいっさい省略するが、ここでどうしても注意しておかなければならないのは、この あたりから「ありうべき天皇」という見方が急速に浮上していることだ。
 天皇そのものではない。天皇の歴史でもない。徳川の歴史家たちは、もはや“神君”を将軍にではなく、天皇の明日に期待を移行させていったのである。

 こうして、山本七平は「歴史の誤ちを糺す歴史観」と「ありうべき天皇像を求める歴史観」とが重なって尊皇思想が準備され、そこから現人神の原像が出てきたというふうに、本書を結論づけたようだった。
 「ようだった」と書いたのは、本書は後半になって組み立てが崩れ、江戸の歴史家たちによる赤穂浪士論をめぐったままに閉じられてしまうからである。
 徳川時代の後半、朱子学や儒学の思想は伊藤仁斎と荻生徂徠の登場をもって大きく一新されていく。陽明学の登場もある。また、他方では荷田春滿や賀茂眞淵 や本居宣長の登場によって「国学」が深化する。本書はこのような動向にはまったくふれず、あえて江戸前期の「尊皇思想の遺伝子」を探索してみたものになっ ている。
 このあとをどのように議論していくかといえば、いまのべた徂徠学や陽明学や国学を、以上の「正統性を探ってきた試み」の系譜のなかで捉えなおし、さらに 幕末の会沢正志斎らの「国体」の提案とも結びつけて見直さなければならないところであろう。
 山本七平はそこまでの面倒を見なかったのだが、それがいまもって丸山真男と山本七平を両目で議論できるホリゾントを失わさせることになったのである。
 が、ぼくとしては冒頭で書いたように、そこをつなぐ研究が出てこないかぎり、われわれはいまもって何か全身で「日本の問題」を語り尽くした気になれないままになってしまうのではないか、と思うのだ。


参 考¶山本七平については『山本七平ライブラリー』全16巻(文芸春秋)がほぼ全容を押さえていて、ぼく自身は『静かなる細き声』(PHP研究所)などが山 七さんの生い立ちを綴ってウルウルさせられたものだが、ほかに『日本的革命の哲学』(PHP研究所)や『日本人とは何か』(PHP研究所)が本書の姉妹版 としては欠かせない。
 なお、ここに述べた「慕夏主義・水土論・中朝論」といった言い方は、最近は「日本型華夷思想」「日本中華主義」などと呼ばれて、かなり新しい研究が進ん でいる。小池喜明『攘夷と伝統』(ぺりかん社)、荒野泰典『近世日本と東アジア』(東京大学出版会)、野口武彦『王道と革命の間』(筑摩書房)、桂島宣弘 『思想史の十九世紀』(ぺりかん社)などを読まれるとよい。また、丸山真男以降の国体論の研究については、最近は姜尚中の『ナショナリズム』(岩波書店) をはじめとする言及が抜群の冴えを示している。これもぜひとも参考にしてほしい。

東亜日報[社説]韓日海底トンネルの公式化提案、問題あり
OCTOBER 23, 2010 02:59
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2010102316198
韓国と日本の学者26人で構成された韓日新時代共同研究プロジェクトが22日に発表した報告書は、韓日関係の未来に向けた意味と明らかな限界を示している。両国は、民主主義や市場経済、人権などの価値を共有する北東アジアの主要国であり、両国の協力を越え、グローバルな問題解決のためにも力を合わせなければならない。両国は、未来志向的な協力のために過去と現在の認識を共有しなければならない特殊な関係でもある。さらに、今年が韓日併合100年という歴史的な意味を考えれば、これまでとは違う画期的な歴史認識が加害国である日本から出されなければならない時だ。

しかし、併合に対する同プロジェクトの認識は、今年5月に両国の知識人の共同声明に比べて大きく及ばない。当時、日本の知識人104人は、韓国の知識人109人とともに、「韓国併合は、大韓帝国の皇帝から民衆までの激しい抗議を軍隊の力で押しつぶして実現された不義不正な行為である」と明示して、併合条約が当初から無効という共同声明を発表し、日本政府にこのような歴史の真実を受け入れるよう求めた。その後、参加する知識人が増え、最近までに日本で約560人、韓国で約590人が参加した。
いっぽう、今回の韓日の学者による報告書は、「日本は、武力で韓国人の反対を押さえ込み、韓国併合を断行した」という言及にとどまった。明白な過去の不法行為を認めず、「過去の重い歴史の事実を直視し、地平線の向こうの明るい未来を開拓しよう」と言うことは、空虚なレトリックに聞こえる。過去の真実を認めず、どのように過去を忘れないと言えるのか。強制併合が、「強迫による不法条約」であることを日本側が認めないのは、まだ心からの国家的反省が不十分だということを意味する。

同プロジェクトが選定した21のアジェンダにも、国民的論議を呼ぶ懸案が含まれている。両国の専門家たちが、海底トンネルの推進を含めたことは、性急であるだけでなく、誤解の素地が大きい。韓日海底トンネルは、日本の軍国主義時代に遡る。日本は1940年、米国の潜水艦などの海上攻撃を受けずに大陸に軍需物資を積み出す「不沈航路」を確保するために、海底トンネル工事を計画した。このような過去を見ず、海底トンネルを美化して、両国首脳への報告書に含めたことは不適切だ。日本側と特定宗教団体の海底トンネル推進ロビーについての風説も広まっている。トンネルが、両国の経済利益のために必要な点があるとしても、国民的論議とコンセンサスの構築が先行しなければならない。

韓日共同研究プロジェクトは、韓日首脳の合意によって発足し、昨年2月から20ヵ月間の議論を経て報告書を作成した。十分な時間があったにもかかわらず、問題の素地が多い提案をしたことは残念だ。両国首脳がこの報告書をもとに「韓日新時代共同宣言」をするなら、大幅な補完と修正、そして国民の合意が必要だ。
海舟
『氷川清話』
1914・1972 講談社学術文庫
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0338.html
 勝海舟は明治32年まで生きていた。西郷・大久保が倒れ、帝国議会が生まれ、日本が日清戦争に勝って三国干渉で屈辱にまみれていたところまで見ていた。
 晩年は赤坂にいた。明治5年に静岡から戻ってずっといたのだから、25年も棲んでいたことになる。氷川である。
松岡正剛事務所と編集工学研究所は赤坂稲荷坂に越してからは、毎年正月を氷川神社に挙って初詣をすることにしているのだが、その氷川神社のそばに寓居した。77歳で亡くなった。
 幕末維新のすべてを見聞した男で、かつ自由な隠居の身で好きなことを喋れる男は海舟しかいなかったから、その氷川の寓居には、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで「氷川清話」という。
 新聞連載を編集しなおして吉本襄が大正3年に日進堂から刊行した『氷川清話』が有名だが、そのほかに巌本善治の『海舟余波』もある。子母沢寛司馬遼太郎も海舟を描いて存分ではあるが、本人の言葉だけでできている清話は、もっと格別である。

 話は、自分が「海舟」という号をおもいついたのは佐久間象山が「海舟書屋」と書いたのを見て、それがよくできていたからだったというところから始まり、 咸臨丸による渡航ののち浦賀に着いたとき、桜田門の変があったと聞いた瞬間に、これはとても幕府はもたないと見たというように進んでいく。
 なるほどそうかと思わせるのは、幕末維新で「広い天下におれに賛成する者なんて一人もいなかった」というくだりで、海舟はそういうときは「道」という一 文字を思い描いて、ひたすら自分で自分を殺すまいと誓っていたらしい。その海舟の気持ちをわずかに理解していたのは山岡鉄舟くらいのものだったという。
 それから人物論に入っていく。おそらく聞き手があの人はどうでした、この人はどんなもんですかと聞いたからであろうが、海舟は大人物というのは百年に一人現れたらいいほうで、いまの御時世からするとあと二百年か三百年のちになるだろうというような見識なので、容易に人物批評はしない。
 なかで、「いままでに天下で恐ろしい人物がいるものだ」とおもったのが二人いて、それは横井小楠と西郷隆盛だという。小楠は他人には悟られない人物で、 その臨機応変は只者でなく、どんなときも凝滞がない。つまり「活理」というものがあった。南洲はともかく大胆識と大誠意が破格で、その大度洪量は相手の叩 く度合いでしか動かない。
 それにくらべると、藤田東湖などは国をおもう赤心がこれっぽっちもなく、木戸孝允は綿密なだけで人物は小さく小栗上野介は計略には富んでいたものの度量 が狭かった。榎本武揚や大鳥圭介なんてのはただのムキになるだけの連中だ。
 そんな忖度のついでに、山内容堂には洒落があったから英雄になれたのではないか、近江商人は芭蕉の心を生かしている、芸者や職人と付き合えない奴はなにほどでもない、おれが放免してやった泥棒たちの話に時代を読めるものがひそんでいたねえ、などという炯眼キラリと光る雑談がまじっていく。

 海舟は「時勢が人をつくる」という見方を徹している。また、今日の時代(明治後半)は「不権衡」であるとみなしている。不権衡とは不釣合いという意味 で、バランスがないということ、こんなときに何を焦ってもうまくはいかないというのだ。
 このあたりの清話はまさに政談で、今日の日本の政治家や経済学者にもよく聞かせたい。こういうことを言っている。
 政治家の秘訣は何もない。知行合一をはかるだけである。ただ、国家というものは、1個人の100年が国家の1年くらいにあたるから、この時間の読みをま ちがえてはいけない。内政については地方をよく見るべきで、昔なら甲州・尾張・小田原だ。そこに秘訣が潜んでいた。
 外交は、いったい誰が外交をするかということが重要で、その外交にあたった者はともかくいっさいの邪念を捨てて臨む。明鏡止水の心境をもたなければいけ ない。しかし、ひとつだけ外交の秘訣をいえば、それは「彼をもって彼を制する」ということだ。
 それから外国に安易に借金をしないこと、軍備を拡張しすぎないことである。軍備がなければ国は守れないが、軍艦ひとつ1マイル走らせれば1000両かか るのだから、よくよく気をつける必要がある。逆に軍備縮小については、これを吹聴してはならない。軍事はあんなに重装備のものだが、実は呼吸なのである。

 海舟の政談はまだ続く。
 問題は経済で、と言う。たしかに経済がいちばんややこしい。しかし最初にはっきり言えるのは、まずもって経済学者の言うことなんて聞かないことだ。政治家が経済学者の言葉に耳を傾けるようになったら、おわりだというのである。そのうえで、言う。だいたい「日本のただいま不景気なのも、別に怪しむことはな い」。理屈では何も変わらない、それが経済だ。人気と勢力がすべてをゆっくり変えていく。
 ただし、「然諾」(約束)というものだけは守らなくちゃいけない。この、経済の然諾を何にするかというのが難しい。人民が喜ぶからといって、おいしいこ と、いいことばかりを最初に約束してしまっては、あとが困る。大切なのは根気と時機(施策のタイミング)なのである。
 海舟は実は経済施策につねに関心をもってきた。関心があるだけではなく、実際にもいくつもの手を打っている。
 金の配分にも絶妙なところがあって、いつもタイミングをずらしている。もともと海舟には貨幣とか通貨というものに国家の秘密を嗅いでいるようなところがある。『全国貨幣総数大略』などという著述があるほどなのだ。
 けれどもその一方で、経済の本当の活性化は、「待合や料理屋や踊りの師匠三味線の師匠た ちを繁盛させられるかどうか、そこにかかっているのだ」という。これはかなりの卓見である。江戸本所に生まれて赤坂に死んだ江戸っ子気質が言わしめたとは 片付けられないものがある。実際にも、幕末の江戸の経済のため、海舟はそういった連中にお金をまわすのを忘れなかった。そのため、江戸は幕府倒壊の渦中ですら、おおいに繁盛していたのである。

 海舟は行政改革や地方自治についても発言をしている。
 行革をやるのはいいが、その方針がたったからといって何もできはしない。ケチな連中を相手の行革なのだから、そのケチにケチを言わせないようにやらなけ ればならない。方針なんてお題目で、それはそれで措いておきなさいというのだ。「それより改革者が自分を改革していることを見せるのが一番の行革なん だ」。
 もうひとつ、猟官を出さないこと、出したら取締まること、これである。
 地方自治の問題だって、いまさら珍しい名目じゃない。徳川を見なさい、すべては地方自治だった。それを真似ろとはいわないが、上からの地方自治をいくら 提案したってダメだろう。名主とか五人組とか自身番とか火の番とか、かつての工夫があったように、そういう工夫をもっと大きな仕組みで提案したほうがい い。
 もうひとつ注告がある。それは政治家はめったに宗教に手を出さないことだ。これはとんでもない大事をひきおこす。それこそ「祟り」が返ってきかねない。そんなことも言う。

 こうして海舟が「真の国家問題」として重視したのは次のことである。「今日は実に上下一致して、東洋のために、百年の計を講じなくてはならぬときで、国家問題とは実にこのことだ」。
 おれも国家問題のために群議をしりぞけて、あのとき徳川300年を棒にふることを決意した。そのくらいの度量でなければ国家はつくれない。ただ、これからは日本のことだけを考えていても、日本の国家のためにはならない。よく諸外国との関係を見ることだ。そのばあい、最も注意すべきなのが支那との関係で、 すでに日清戦争でわかったように、支那を懲らしめたいと思うのは、絶対に日本の利益にならないということだ。
 そんなことは最初からわかっていたことなのに、どうも歯止めがきかなくなった。これはいけない。支那は国家ではない。あれは人民の社会なのだ。モンゴルが来ようとロシアが来ようと、膠州湾が誰の手にわたろうと、全体としての人民の社会が満足できればいいのである。そんなところを相手に国家の正義をふりまわしても、通じない。これからは、その支那のこともよく考えて東洋の中の日本というものをつくっていくべきだ。
 この海舟の読みは鋭かった。まさに日本はこのあと中国に仕掛けて仕掛けて、結局は泥沼に落ちこんで失敗していった
 かくして昭和の世に、勝海舟は一人としていなかったということになる。

参 考¶勝海舟にはすこぶる著作が多い。順にいえば『亡友帖』『断腸の記』『吹塵録』『吹塵余禄』『外交余勢』『流芳遺墨』『追賛一話』『開国起原』『幕府始 末』などを著したほか、請われて『海軍歴史』『陸軍歴史』『府城沿革』『全国貨幣総数大略』などの編集にも携わった。以前は改造社が10巻の全集を、勁草 書房が22巻の全集を刊行していたが、現在は講談社から決定版ともいうべき『勝海舟全集』全22巻が出版されている。本書『氷川清話』もいろいろ版がある が、ここで採り上げたものが一番いい。江藤淳と松浦玲が編集したもので、吉本襄があやしげな換骨奪胎をしているのを元に戻し、さらにそうとうの補充をし た。読むならば講談社学術文庫版である。もっとも、ごくごく現代語で軽く読むには勝部真長編集の『氷川清話』(角川文庫)がある。
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深沢七郎『楢山節考』
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0393.html
 山梨に石和温泉がある。ときどき訪れる。途方もなく大きな岩石や鉱物を、庭や風呂だけでなくどの座敷にも入れてある変な旅館があって、そこが気にいったためである。
 深沢七郎はその石和に生まれた。少年時代はギターばかりひいていたようだ。青年になっても壮年になってもギターを捨てがたく、日劇ミュージックホールに 出演などしていた。それがどうしたことか、思い立って小説を書いて応募した。『楢山節考』である。これが第1回中央公論新人賞になった。
 選者はいまでは考えられないくらいの羨ましいメンバーで、伊藤整・武田泰淳三島由紀夫があたっていた。三人が三人ともこの作品の出現にショックをうけたようだ。「私」とか「自由」とか「社会」をばかり主題にしていた戦後文学の渦中に、まるで民話が蘇ったかのような肯定的ニヒリズムがぬくっと姿をあらわしたからだったろう。

 その後、深沢七郎の文学は、批評家たちからはアンチ・ヒューマニズムであるというふうに言われるようになった。
 この用語はロラン・バルトな どもつかっているが、わざわざ深沢七郎にあてはめても仕方がない。こういう用語で処理しようというのは日本の文芸評論の悪い癖で、だいたいヒューマニズム などという概念が多くの良質な日本文学にさえあてはまらないし、ましてその西洋的なヒューマニズムに対抗する思想としてのアンチ・ヒューマニズムを『楢山 節考』のために用意したところで、どんな解説にもならない。
 それならそれこそアンドレ・マルローではないが、深沢七郎の作品性はそれ自体が何にも属さない「連綿たる一個の超越性」であるなどと言ったほうが、よほど気分がいい。
 さきほどぼくがつかった「肯定的ニヒリズム」という言葉にしても、伊藤整・ 武田泰淳・三島由紀夫のショックをいいわらわすために、武田泰淳自身が「そうだねえ、まあ明るいニヒリズムというのかな、肯定そのものが無であって、無そ のものから肯定が出てくるような、そんな印象だったね」と、のちにぼくに語ってくれた言葉から選んだものにすぎず、武田泰淳とてそれで何かを説明するつも りなどないはずなのである。
 それで思い出すのは「深沢味噌」で、ぼくはこの深沢さん特製の味噌をいつも武田家から分けて貰っていた。
 なぜこんな話を持ち出すかというと、武田泰淳にとっても『楢山節考』は深沢七郎がつくる味噌のようなものとしか、いや味噌の練り味そのものだとしか言いようがなかったはずであるからだ。

 ぼくは『楢山節考』を発表すぐに読んでいる。中学生だから、何をどう読めたかはおぼつかないが、それから10年ほどして学生時代に読み、あとは映画を見た。
 さらにゲッチンゲン大学の日本研究センターのリヒターさんが、ぼくに関心をもって来日したとき、何かのはずみで深沢七郎の話になって、次に会ったときにその話を聞きたいと言われ、それでまた久々に読んだ。
 ところが、これらの数度にわたる読後感がほとんど変わらないのである。これはむろん読む者の力のせいなんぞではなく、『楢山節考』がもたらす味噌の味が変わらないということなのだ。ちなみに市川崑の映画は気にいらなかった。
 ついでにいえば、中村光夫の「夢と現実のまざった無気味が出ている」、大岡昇平の「選ぶ言葉に喚起力がある」、平野謙の「棄老伝説のおそろしさ」といった批評もつまらなかった。

 ぼくが読む『楢山節考』は歌物語だということである。
 その歌はもちろん多少は日本の山村に伝えられてきたものであるが、むしろ深沢七郎が好きにつくった歌だといってよい。その歌が伊勢物語のように(マザー グースのように、と言ったほうがわかる人が多いだろうが)、おりんが楢山に負われて捨てられていくまでを追いたてる。
 そういう作品なのである。実際にも作中でつかわれている歌、すなわち楢山節は、深沢七郎が作詞作曲をした。楽譜を見るとフラメンコ風である。

かやの木 ギンやん ひきずり女
アネさんかぶりで ネズミっ子抱いた

塩屋のおとりさん 運がよい
山へ行く日にゃ 雪が降る

楢山まつりが 三度来りゃる
栗の種から 花が咲く

山が焼けるぞ 枯木ゃ茂る
行かざなるまい しょこしょって

 いくつの歌が作中に入っているか数えていないが、おそらく20近い歌が、物語の進行にしたがって出てくる。そのいちいちが作中人物がらみのもので、しか も作者はその歌の意味をことこまかに説明をする。まるでそれらの歌に引きずられて登場人物がなりふりを合わせているようにも、読める。
 実際にも、そうなのだ。この姥捨の習慣が続く山村には、深沢がつくりたかった歌以外の出来事はおこらない。まず貧しい。食いぶちがない。祭りは一年に一 度だけ、嫁入りには式も披露宴もない。合意だけがある。何かがそのようにあれば、ただそのようなことがおこるだけの寒村なのである。正月もとくになく、仕 事を休むだけなのだ。
 深沢はそのような寒村におこる出来事のすべてを、歌を挟んで説明をする。いや、歌が響きわたるように物語を綴ったのだ。

 不思議なことに、歌というものは30年前に唄った歌をいま唄っても、その印象はそんなに変わらない。その歌を10年前に唄ったときも、きのう唄っても、それほど変わらない。
 これは和歌などにもあてはまることで、いつ口にしてみても、一定の響きと意味を唱え出す。
 深沢七郎にはそのような唄をつくる才能がある。それも作詞だけではなく曲が一緒になっている。深沢自身もプレスリーやロカビリーが好きで、ウェスタンに走っていたころは埼玉県の菖蒲町にラブミー農場を営んだ。
 その作詞作曲のように小説があり、ララミー農場のように小説があるだけなのである。そう見たほうがいい。

 だから、こういう作家がいるからといって、それをむりやり文芸評論の範疇で定義したり解説しようというのは、同慶のいたりではあるけれど、やはりとんちんかんになる。
 それでもそうしたくなるのは、小説というものを何がなんでも「文学」という牙城に入れたいからで、許されるのなら放っておけばいいのである。
 深沢七郎とはそういう生きた作品なのである。べつだんここで洋の東西を比較したいのではないが、いってみればボリス・ヴィアンなどもそういう生き方で小説を書いていた。

 ところで、ぼくは『楢山節考』を読むたびに、泣いた。楢山に雪が降ってきたところなど、困るほどだった。
 そのように僕が泣くのをわかっていて、辰平に「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」と言わせるあたりは、 これは深沢七郎の憎いほどの、しかしながら歌を作ったり唄ったりすることが好きな者だけが知る演出なのである。しかしそれは、ぼくが野口雨情の唄に何度でも泣くように、深沢七郎が自分のつくった歌の泣きどころをよく知っているということにすぎないのであろう。
 物語は最後にこんな歌が出て、終わる。これが最後の最後の一行になっている。

なんぼ寒いとって 綿入れを
山へ行くにゃ 着せられぬ
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誤解と偏見の中に−深沢七郎