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植民地主義のC算と平和実現のための日韓市民共同宣言
「韓国強制併合100年」共同行動7・8月企画より
http://nikkan2010.exblog.jp/11792644/

「私たちの要求と行動計画」
2010年8月22日
強制併合100年共同行動韓国実行委員会
強制併合100年共同行動日本実行委員会

前文
1.1910年8月、日本帝国は天皇の名において大韓帝国に「韓国併合条約」を強制し、主権を奪い、過酷な植民地支配を開始した。36年に及ぶ日帝の植民地支配は朝鮮民族の尊厳を深く傷つけた。

 それから今年で100年になる。植民地支配は、1945年8月15日、日本のポツダム宣言の受諾−敗戦によって終結した。その敗戦、朝鮮解放から65年が過ぎたが、日本政府は今でも、「併合条約」は適法であり、有効であったと主張している。植民地支配の実態、その真相については究明するどころか隠し続け、被害者に対する謝罪、賠償もほとんどおこなっていない。

 他方、朝鮮は日本の植民地であった結果、米国の戦後の分断政策と、ほぼ同時期に始まった東西対立・「冷戦」によって南北に分断された。1950年6月には朝鮮戦争が起こり、民間人を含む300万人が死亡し、1000万人の離散家族を生んだ。軍事境界線をはさんで南北は今も軍事的対立関係にあり、終戦と平和への見通しも立っていない。日本と朝鮮民主主義人民共和国とは国交さえ正常化していない。植民地主義の清算はまだ終わっていないのである。

2.2001年、南アフリカのダーバンで、「人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連のある不寛容に反対する世界会議」が国連主催で開催された。そこで採択された「ダーバン宣言」は、初めて「奴隷制と奴隷取引」を「人道に対する罪」と規定した。植民地主義についても「非難され、その再発は防止されねばならない」ことを確認した。

 その上で、過去数百年にわたってアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの多くの民族・民衆を苦しめた奴隷制と植民地支配の清算をおこなうことは歴史的課題であると宣言し、その実現に向けての行動計画を打ち出した。つまり、「合法」であったか否かを論ずる以前に、植民地支配それ自体を人類に対する犯罪であると断じ、その被害がなお継続している現実を直視し、克服していくことを提起したのである。画期的な意義を有するこの宣言は、欧米諸国のみならず日本を含むすべての旧植民地国家に突きつけられている。

3.韓国強制併合100年を迎える今、植民地主義を清算し、東アジアの平和な未来を構築することは
日本と韓国・朝鮮、東アジアの市民の共通の課題であり、そのために手を携えて共同していくべきときである。

 私たちは、ここに「日韓市民共同宣言」をおこない、東アジアにおける負の歴史の清算と人間の尊厳の回復、平和の実現に向けての課題と行動計画を提起する。

朝鮮侵略と強制占領
1.1875年9月、日本は軍艦を江華島に侵入させ、江華島事件を引き起こし、翌年、朝鮮に不平等な日朝修好条規の締結を強い、朝鮮侵略の足場を築いた。これと前後してアイヌモシリと琉球を強圧的に植民地化して帝国に組み入れ、さらに1894年、日本は日清戦争を起こした。日清戦争と言うが、その戦場は朝鮮・中国・台湾にまたがり、朝鮮では日本の侵略に抗して決起した東学農民軍2〜5万人を、旅順戦では2万人余の非戦闘員を、台湾領有戦争では割譲・植民地化に抵抗する義勇兵・民衆約1万4千人を虐殺した。日本軍による最初のジェノサイド(集団殺戮)であった。日本は、日清戦争を通じて朝鮮から清国の勢力を追い出し、また台湾を植民地とした。これは日本のアジア・太平洋における50年以上にわたる侵略と戦争の始まりであった。

2.1904年、日本はロシアと戦端を開いた。大韓帝国に対するロシアの影響力を排除し、朝鮮半島を支配下に置くためであった。日露戦争で日本は朝鮮半島を戦場とし、韓国の「保護国」化を進め、ポーツマス条約締結後には、さらに外交権を奪い、軍隊を解散させ、内政監督権を掌握した。また、独島=竹島を日本に強制編入した。その上で大韓帝国併合をおこなった。

 日本は、この過程を進めるため、軍事的脅迫の下、韓国皇帝に1904年から07年にかけ日韓議定書、第1次日韓協約、第2次日韓協約(乙巳条約)、第3次日韓協約(丁未7条約)の4つの「条約」、1910年に「併合条約」の締結を強要した。「対等な立場」でも、「自由な意思」によるものでもなく、条約は正規の形式・手続等を欠いていた。4つの「条約」、「韓国併合条約」は、国際法に照らして明らかに違法・無効である。

3.日本の韓国強制併合に対し、朝鮮の女性を含む民衆、軍人は義兵闘争を起し、安重根は「東洋平和侵害」の責任者たる伊藤博文を射殺した。しかし、日本は義兵闘争を武力鎮圧した。捕捉した義兵もその多くを捕虜として扱わず現場で射殺した。

 1913年までに犠牲となった義兵の数は日本側資料で確認できた限りでも1万7千余人にのぼる。これもまたジェノサイドであった。他方、日本においても社会主義者らが日露戦争反対を唱え、1907年には「朝鮮人民の自由、独立、自治の権利」を決議した。これに対し日本政府は「大逆事件」で幸徳秋水、管野須賀子ら24名に死刑判決を出すなどの弾圧を加えた。この弾圧と韓国強制併合は同時におこなわれた。

4.「併合条約」前文は、韓国併合の目的を「相互の幸福の増進」と「東洋の永久の平和の確保」にあるとうたっていた。しかし、そもそも日本帝国の朝鮮植民地化は、「帝国百年の長計」として企図された。即ち、朝鮮半島を中国侵略の橋頭堡としていくために併合を計画し、実行したのである。そして、日本はジェノサイドを繰り返すことで植民地化を達成していった。その後の日本は、植民地朝鮮を足場として、中国、「満州」からさらにアジア全域へと侵略を拡大していった。アジアを戦争と恐怖のるつぼと化し、民衆に多大の損害と苦痛を与えた。条約前文とは裏腹に、併合条約は、両国の民衆を不幸にし、東洋の平和を破壊するものにほかならなかった。
 
植民地支配
1.韓国併合を強行した日本は、現役軍人を朝鮮総督に任命、軍事的支配を強化し、併合に抵抗する朝鮮民衆を弾圧した。国策会社であり天皇・皇族が大株主の東洋拓殖株式会社は土地調査事業によって獲得された大規模な土地を安値で買い取り、高率の小作料の植民地地主制を強化し、朝鮮農民を収奪した。産米増殖計画によって朝鮮米が大量に日本に流出し、多くの自作農が小作農など貧民に没落していった。また、朝鮮全土から文化財を収集・略奪するなどし、それを様ざまな経路で日本に持ち出した。

2.1919年3月1日、独立運動家、宗教指導者33人が独立宣言を発表した。3.1独立宣言は日本帝国の朝鮮支配が全アジアに不幸をもたらす所以を理路整然と説き、日本人を諌めるものであった。しかし、日本政府はこの貴重な忠告に耳を傾けるどころか、独立宣言起草者を逮捕・投獄し、さらに独立運動に決起した数百万にのぼる民衆に弾圧を加え、数千人を虐殺し、多数を逮捕、負傷させた。

 しかし、独立運動は朝鮮半島内にとどまらず広がり、中国の上海では臨時政府が樹立され、中国東北部の間島地方では武装闘争が展開された。これに対し日本は間島地方の朝鮮人村落でジェノサイドをおこなった。日本国内でも1922年、新潟県中津川における朝鮮人労働者の虐殺・虐待事件に対し、真相究明運動などが展開された。これは宗主国たる日本国内における独立運動・労働運動の端緒となった。1920年代以降も、朝鮮独立闘争、抗日戦争は中国、台湾、日本国内において継続されたが、これに対し日本政府は治安維持法等を過酷に適用した。

3.1923年9月、関東大震災時の戒厳令下で、「朝鮮人が毒をまいている」などの「デマ」がまき散らされ、この「流言飛語」により関東在住の朝鮮人が軍隊・警察および民衆の手にかかって殺害された。官憲が遺体を隠し、証拠隠滅を図ったために正確な数は不明であるが、犠牲となった朝鮮人の数は数千人にのぼる。「流言飛語」は官憲が組織的に流したものであり、住民らに大きな影響を及ぼした。この虐殺について大正デモクラシーの思想家吉野作造は「世界の舞台に顔向けの出来ぬ程の大恥辱」と述べ、山川菊栄らの社会主義者も朝鮮人虐殺を糾弾した。関東大震災時朝鮮人虐殺の第一の責任は、あくまで日本政府にある。

4.1930年代に入ると日本帝国は、中国侵略を本格的に開始し、先ず中国東北部(「満州」)を占領し、さらに北京、上海に派兵、中国全域に侵略を拡大した。そして、これと平行して「内鮮一体」を唱えて朝鮮植民地支配をいっそう強化していった。「皇国臣民の誓詞」の暗唱、神社参拝、宮城遙拝、朝鮮語の禁止、創氏改名などにより朝鮮固有の文化を圧殺して朝鮮人の皇民化を推進した。それは文化的ジェノサイドとも言うべきもので、朝鮮を中国、さらには東南アジア侵略のための兵站基地とするためであり、朝鮮人を天皇の命令に従って死ぬことのできる忠良な臣民にしていくためのものであった。

5.日本は、侵略戦争を拡大していくに伴い、総力戦体制を構築するために日本人だけではなく朝鮮人の強制動員をおこなった。日本の青年層を根こそぎ戦力動員したことにより深刻な労働者不足に陥った企業・生産現場には朝鮮人を労働動員し、兵士不足を補い、弾除けとするために兵力動員をおこなった。
戦時生産を維持するために、1939年以降、「労務(国民)動員計画」等を閣議決定し、朝鮮半島から日本国内、千島・樺太、南洋諸島などの鉱山・軍需工場・土木工事現場等に動員し、賃金もまともに払わず、強制労働を強いた。また、12〜15歳の少女たちを甘言によってだまし、女子勤労挺身隊として軍需工場等に動員した。これらの労働動員は、ILOの強制労働禁止条約(日本は1932年批准)違反であった。過酷な労働・虐待、原爆被爆、空襲、艦砲射撃等によって多くの労働者が死亡した。死亡者の遺骨は今も各地に放置されている。解放後も日本に残留、サハリンに置き去りにされた朝鮮人も多く、家族の離散という深刻な問題も発生した。

 不足する兵士を補充するために、1938年から志願兵の募集を開始、1944年からは徴兵制を適用し朝鮮人兵士を戦場に送った。捕虜監視員、軍属・軍夫としても動員した。戦場に送られた兵士、軍属等のうち数万人が戦闘、飢餓、疾病等で死亡した。その遺骨の多くは放置され、遺族のもとに返された例は少ない。

 さらに、遺族に通知もせず、同意を求めることもしないまま、靖国神社合祀だけがおこなわれた。しかも靖国神社は遺族の合祀取消し要求を拒み、「2次加害」を犯している。一方、生き延びた者でも重い障害を負った者、「BC級戦犯」として裁かれ死刑などの重刑を受けた者、シベリアに抑留された者など過酷な運命を強いられた被害者は少なくない。しかし、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給等の適用については「日本人ではない」という理由で排除された。2010年に成立した「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」でも朝鮮人・台湾人は除外された。これは国際人権規約に違反している。

 労働・兵力動員された被害者らには、戦後、未払い賃金や手当、貯金、厚生年金等の労働債権が未清算の
まま残されていたが、それは日韓請求権協定と法律144号で一方的に権利を消滅させられた。

6.朝鮮人女性に対しては、彼女らの尊厳を根底から踏み躙る「性的動員」「性奴隷化」を強行し(日本軍「慰安婦」制度)、心身に癒しがたい傷を刻みつけた。旧日本軍は、侵略戦争に兵士たちを駆り立てるため、女性の性を徹底的に道具として、兵士に「あてがい」、軍の「士気」高揚を図った。日本軍「慰安婦」制度とは、「女性の性」を利用し、兵士たちの性管理・統制をおこなう、侵略戦争の遂行・維持政策でもあった。

 このような女性の人間としての尊厳を粉々に打ち砕いた軍・国家の犯罪に対し、日本政府は、今に至るも彼女らに謝罪や賠償などの公的責任を履行していない。「女性のためのアジア平和国民基金」は、日本軍「慰安婦」制度が国家犯罪・国家暴力であることを隠蔽し、日本政府の責任を免罪するものでしかなかった。

7.さらに戦争末期、1945年3月には米軍による東京大空襲があって約10万人の市民が犠牲となったがその犠牲者の中に少なくとも1万人の朝鮮人が含まれていた。また8月には広島と長崎に原爆が投下されて、両市合わせて30万人を越える犠牲者が出たが、そこにも数万に及ぶ朝鮮人が含まれていた。日本政府は、空襲被害者には何の補償もしていない。韓国人原爆被爆者に対しては、厚生省の一片の通達で原爆医療法・特別措置法・被爆者援護法の適用から排除した。この通達は2007年11月の最高裁判決で違法と判断され、在韓被爆者に対して日本人被爆者と同様の医療支援等を行うことが義務づけられた。しかし、差別は依然として解消されておらず、在朝鮮被爆者には今に至るも何の援護も実施されていない。

敗戦と解放以後
1.1945年8月15日、日本帝国のポツダム宣言受諾、無条件降伏によって、朝鮮全土に対する植民地支配は消滅した。1943年11月の「カイロ宣言」は、「朝鮮人民の奴隷状態」に留意し、「朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる」とうたっていた。そして、ポツダム宣言は、カイロ宣言の条項の履行を明記していた。

 これにより朝鮮半島は日本帝国の「版図」から離脱-独立を回復することとなった。しかし、日本は植民地支配の清算をおこなうどころか、資源・食糧・文化財などの略奪や強制動員、民族抹殺政策と独立運動に対する過酷な弾圧・虐殺に対し一言の謝罪すら表明しなかった。さらに新しい国づくりを進める朝鮮人民の闘いを妨害し、朝鮮戦争時には米軍を支援し南北分断の固定化に手を貸した。

2.その背景には、米英等が主導した極東軍事裁判が「平和に対する罪」と「通常の戦争犯罪」、何件かの「人道に対する罪」は裁いても、日本の植民地支配責任については追及せず、不問に付したことがある。また、ソ連の台頭、中国革命の進展に危機感を募らせた米国が、日本を反共の防波堤とし、「冷戦」体制に組み入れていく方向へと対日政策を大きく転換したことがあった。

 これによりサンフランシスコ講和会議から南北朝鮮は除外され、日本に対する賠償問題も棚上げされた。わずかに財産・請求権についてのみ特別取り決めの主題とし、交渉することが認められた。欧米諸国による日本の植民地支配責任不問と「冷戦」が日本の植民地支配清算の不徹底を許した。
 講和条約が発効すると、日本は真っ先に戦前の軍人恩給制度を復活させたが、それは日本人にのみ適用し、植民地出身者には一切の補償を拒絶し、未払い賃金すら払わず、BC級戦犯として処刑だけはおこなった。こうして日本政府は何ら植民地犯罪の責任を取らず、民衆もまたその責任を意識せず、朝鮮人に対する差別と排外意識を克服できないままとなった。

3.1965年6月の日韓基本条約、日韓請求権協定等は植民地主義を清算するものとはならなかった。韓国政府は植民地支配に対する賠償を求めたが、日本政府は併合条約は適法であったと主張するだけでなく、「日本は朝鮮でよいことをした」などと植民地支配を正当化し、それを拒んだ。米国はこのような日本政府を後押しし、朴正熙政権は、開発政策を優先し無償・有償5億ドルの「経済援助」を受け入れた。

 日韓請求権協定第2条は、「請求権に関する問題は、完全かつ最終的に解決した」と規定した。植民地支配下でのさまざまな犯罪行為とその被害に対する責任追及、賠償問題は封印された。また、日韓基本条約第3条は、韓国政府を朝鮮半島における「唯一の合法的な政府」と規定し、日本は南北分断の固定化に加担した。

4.しかし、1987年の韓国民主化、1991年のソ連解体−「冷戦」の終焉後、植民地支配、侵略戦争の被害者たちは堰を切ったように声をあげ始めた。元日本軍「慰安婦」、強制連行・強制労働被害者、元軍人・軍属らが日本政府・企業に対し被害に対する謝罪と賠償を求めて訴訟を起こし、その責任を追及した。在日の元軍人・軍属、在韓被爆者らも戦傷病者戦没者遺族等援護法、被爆者援護法等の適用を求める訴訟を起こした。これに対し一部企業は強制労働被害者に対し実質的に補償をおこなった。
 在韓被爆者の訴えについては司法が日本政府の在外被爆者切捨て措置を違法とし、被害者救済を命ずる判断を下した。在日の元軍人ら(傷痍軍人)には見舞金を支給する特別法が制定され部分的な救済が図られた。しかし、日本の司法は他の被害者の請求についてはことごとく退け、日本政府は日韓請求権協定を楯に問題解決を拒み続けている。

 他方、被害者の戦後補償の実現を求める訴えにこたえ、日本の中で多くの市民が裁判闘争支援などに立ち上がり、2000年には「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」を開いた。70年代以降の韓国民主化闘争支援、キーセン観光反対、金大中氏救出、政治犯救援運動などの上に、戦後補償実現を目指す日韓市民の共同の運動は組織されたのである。この中で、かつての植民地支配・被支配の関係を超えて、戦争責任追及、植民地主義清算に向けての市民の広範な連帯が形成された。

5.他方、戦後、日本に残り生活することを余儀なくされた朝鮮人に対し日本政府は差別・排除と同化政策をとり続けた。サンフランシスコ講和条約締結後、朝鮮人の日本国籍を一方的に剥奪し、出入国管理令、外国人登録法などの管理法令によって生殺与奪の権限を握り、また民族教育など民族的自主権を奪った。日本政府は「冷戦」を利用し、在日朝鮮人を分断しつつ植民地主義的管理の下に置いたが、1965年日韓条約締結以降は分断支配をいっそう深刻化させた。

「韓国籍」を有する者にのみ「永住」(協定永住)を認めて管理を「緩和」しつつ、「朝鮮籍」の者には「永住権」を認めず抑圧を強めた。その後、「朝鮮籍」の者にも「永住」(特例永住)を認めるに至り、さらに「特別永住」に一本化したが、2008年入管法改悪によって「一般永住者」に対する監視・管理を強化した。難民条約、人種差別撤廃条約等への加入により社会保障などの差別措置を一定是正した。
 しかし、在日の高齢者たちは国民年金の適用を除外され、ほとんど無年金状態に置かれている。老齢者支給金を支給する自治体もあるが、それも平均月額5千円にしかならない。また、朝鮮学校生徒への高校無償化適用除外をおこなうなど差別と分断政策は今も続いている。

東アジアの平和な未来を築くために
1.東アジアは今、大きな転換期を迎えている。韓国では民主化運動の成果により、過去の歴史の痛ましい記憶を整理し、傷を癒すための「過去清算」が政府と民間次元で取り組まれ、2000年の南北共同宣言によって統一への展望が示される中、南北交流も大きく進展した。植民地時代、朝鮮戦争時、軍事独裁下で起こった強制動員被害、民間人虐殺、人権侵害などの真相を糾明し、その被害者らの名誉回復、賠償等の事業をおこなうとともに、「親日派」問題の追及が進んだ。

 これは未来を切りひらいていくためには過去を直視し、正しく総括しなければならないとの考えに基づくものである。また、試行錯誤しながら進められた南北交流の蓄積は、東アジアにおける戦争の雰囲気を抑え、平和体制を構築する礎としての役割を果たしている。

2.他方、日本は戦争責任追及においては天皇の責任を不問に付してきた。植民地支配についても被害当事者の訴えに真摯に向き合い、許しを請うこともしないままであり、朝鮮民主主義人民共和国との関係も正常化せず先送りしている。「村山談話」(1995年)、「日韓パートナーシップ宣言」(1998年)、「日朝ピョンヤン宣言」(2002年)で、韓国・朝鮮に対し植民地支配によって「多大の損害と苦痛を与えた」と述べ、「お詫び」をしたが、行動は伴っていない。むしろ、「新しい歴史教科書をつくる会」が編集した、侵略戦争・植民地支配を美化する歴史教科書を検定、合格させるなど日本社会の歴史認識を後退させる策動に手を貸している。また、脱「冷戦」のプロセスが進みつつある東アジアにおいてなお軍事同盟にすがり、固執する姿勢をとり続けている。これでは東アジア共同体の構築はできないし、平和な未来を切りひらいていくこともできない。

3.今こそ植民地主義の清算に向けて、日本政府は、被害者に謝罪と補償をおこなうとともに、被害者とその犠牲を永遠に記憶に刻み、未来に向けて同じ過ちを繰り返さないための事業を進めていかなければならない。

 疑いもなく画期的な意義を有する2001年の「ダーバン宣言」は、奴隷制と植民地主義を非難し、再発防止をうたいはしたが、被害補償までは打ち出しえなかった。「日韓市民共同宣言」は「ダーバン宣言」を東アジアにおいて具体化し、それをさらに先に進めていくことを追求する。
「ダーバン宣言」10周年の2011年に向けては、「東アジア歴史・人権・平和宣言」を策定していく。また、日韓市民は、朝鮮半島における脱冷戦、脱植民地主義の実現として南北分断の克服、統一をめざしていく。そのため日朝国交正常化、休戦協定の平和協定の転換を実現し、朝鮮半島の非核化を達成していく。

 そして、その上に東北アジア非核地帯の実現、非戦・平和共同体の構築を目指す。そのため日韓市民は連帯して行動を進め、平和な未来をともに切りひらいていくことを宣言し、以下に、私たちの要求と行動計画を明らかにする。