マッケンジー Korea's Figth for Freedom
中公文庫 日本の歴史22
(409P)
 しかもその一週間後、突如、皇帝の命令をもって韓国軍隊の解散が強行された。あらかじめ武器弾薬を押えられていた韓国軍は、手も足もでなかった。それでも、一部の軍隊は反抗して起ちあがった。
 「兵士たちは弾薬庫をこじあけ、武器弾薬を手に入れ、兵舎の窓の後ろに位置し、日本人と見れば銃火をあびせた。ニュースが当局に伝わり、日本軍が急行してきて兵舎を包囲した。一隊は正面から機関銃で攻撃し、もう一隊は背後を攻撃した。 戦闘は朝の八時半に始まり、韓国側は正午まで持ちこたえたが、ついに背面からの突撃でやられてしまった。かれらの勇敢な防禦は日本側からも大いに称賛された」
(マッケンジー、Korea's Figth for Freedom)

「義兵」を訪ねて
 軍隊解散の以前から、朝鮮各地、とくに山間部に「義兵」と称するものが出没し、日本人を攻撃した。軍隊内解散はこの種武装反乱をいっきょに活溌にした。小暴動が各地に続発した。
「九月の第一週までには、紛争の地域は釜山近くからソウル(京城)の北にいたる東方諸道にわたったことは明らかである。反乱者は明らかに、主として解散させられた兵士と山からきた猟 師とからなっていた。京城では、韓国軍の練達な士官がかれらを訓練し、自主的なグループに組織している、といわれていた。
日本側は新鋭軍隊を紛争地に注ぎこんだが、反乱側は山頂の狼火で巧みに連絡し、軍隊をさけ、その攻撃をかわした。報道によれば、かれらは武器らしい武器はもっていない、ということであった」(マッケンジー、前掲書)
 マッケンジーはこの義兵を訪ねて山中に旅にでるのであるが、そこでの見聞をこう記している。  「わたくしは重い心で村をでた。だが、村を焼き払うという日本軍の懲罰の方法がわたくしの心をひどく打ったのは、村人の苦しみもさることながら、日本側の立場にたってみても、この手段の無益なことである。民心を安定させる代わりに、日本軍は数百のおとなしい家庭を反乱側に走らせている。
つぎの数日間、わたくしは一つの町と数十の村が同じような目にあっているのを見たのである。通る村も通る村も、どの家もどの家も焼け落ちていた。人々の態度そのものが、日本軍の手がどんなにひどい痛めつけ方をしたかを物語っていた」
 利川の町は廃墟となっていた。人々は日本人をさけて山に逃げてしまったのである。女や子供たちはどこへいったのかと尋ねると、空に切り立つようにそびえる山を推して、
「かれらはあそこにいる。ここにいて乱暴されるより、何もない山中にいるほうがましですからね」と答えるのである。
 マッケソジーはついに義兵に出会い、かれらの行動を観察し、質問する。
 「歩哨を立てるか」 
 「歩哨の必要はない。周囲の韓国人がわれわれのために見張ってくれる」
 かれは若い指揮者をつかまえて、義兵の組織を聞く。
 「かれが語ったところからみて、かれらが組織というべぎも のをまったく持っていないことは明ら  かである。たくさんの 別々なグループがあって、ごくルーズな連絡があるだけである。各地の金持が資金をだす。それを一、二の反乱指導者が 貰って、自分の周囲に配下を集めるのである。
 かれは義兵がうまくいきそうもないことを認めていた。われわれは死ぬほかないだろう。しかたが  ない。だが、日本の奴隷として生きるより自由な人間として死んだほうがずっとよいではないか、という」 
明治四十一年に、この「暴徒」討伐のために日本は二万の軍隊を動員し、朝鮮全土の約半分の地域で「暴徒討伐」をおこなわなければならなかった。朝鮮の治安状況は、いつまでもくすぶりつづけた。
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記者の眼 日韓併合100年 歴史問い直す機運  栗原淳

「東学農民革命」を知る機会
 百年前、日本は大韓帝国(今の韓国と北朝鮮)を植民地にした。朝鮮の人々の抵抗運動を抑え付けた末の併合だった。日中に続き、日韓の歴史共同研究委員会も二月中に報告書を公表する運びで、東アジア近代史を問い直す機運が盛り上がりそうだ。
 昨年末放送のNHK「坂の上の雲」は、日清戦争開戦(一八九四年)のきっかけとなった朝鮮の東学党の乱について、短いナレーションで触れてはいた。指導者の全ボン準(チョン・ボンジュン。ボンは王へんに奉)が写ったものなど写真数枚も映し出されたが、一人の名前も示されなかった。司馬遼太郎 の原作も、東学とは老化しきった朝鮮社会にはびこる新興宗教で全は「布教師のひとり」と説明されているだけだ。

 中塚明・奈良女子大名誉教授は、日本の近代を描く司馬が、いかに朝鮮を軽視していたかを示しているとし、「大規模な武装蜂起は、日本がその後朝鮮や台湾で直面する抗日闘争の最初のもので、朝鮮史の大事件」と指摘する。
 日清・日露戦争は日本が朝鮮を植民地にすることを目的にした戦争だったと中塚さんは位置づける。
そして封建的な身分差別の撤廃や土地の均等配分を求めた東学党の乱は朝鮮の近代を切り開く可能性を秘めた大衆蜂起だったが、日本という国家がその夢をつぶしてしまった、と考える。
 いま韓国では、東学党の乱を「東学農民革命」と呼ぶ。初めは地方の役人を攻撃していたが、日清戦争を機に儒者らも加わった大規模な抗日闘争に転じ、全土に広がった。
 清と同様、鎮圧を名目に朝鮮に入った日本軍は、朝鮮政府軍を従えて半島の南に反乱軍を追い詰めた。最後は西南に端にある珍島での掃討で終わった。「東学農民兵に対する処分は(略)過酷をきわめた。日本軍の記録によると戦闘で六千人、処刑五千六百人とされている。人的損耗が五万に近いという説もある」(秦郁彦ほか監修『世界戦争犯罪事典』文芸春秋)

 日本の高校歴史教科書十八点のうち、蜂起の鎮圧に触れているのは東京書籍刊「日本史B」などごくわずか。中塚さんは「この抗日闘争のことは、日本人のほとんどが知らないのでは」と問いかける。
 歴史共同研究委員会は小泉政権下の二〇〇二年、教科書問題や首相の靖国参拝で日韓関係が 悪化したことを受け両国政府が旗振り役になって発足。〇七年からの第二期で、両国の歴史教科書の内容を検証し合う場が設けられた。

 「坂の上の雲」の舞台、松山市の市民有志は韓国の市民と連携し、歴史認識の違いを乗り越えようと「共同歴史シンポジウム」を毎年開いている。東学党弾圧が教科書に載っていない問題も取り上げられ、議論は深まっている。日韓両国政府による共同研究委の報告書に、注目したい。(東京文化部)
中日新聞 2010年2月15日 夕刊11面 解説面
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コンパス 併合と合併
 食品・飲料大手のキリンとサントリーが経営統合を断念した。新会社の株式保有比率を半々とする 対等合併を目指したが、折り合わなかった。
 企業の対等合併と聞いて思い出すのが、田母神俊雄・元航空幕僚長が講演で話した「日韓併合は 会社で言えば対等合併」という発言。朝鮮の人々にも日本人と同じ権利が与えられたいう考えだ。
 「日韓併合」という言葉からは「日韓が一つになった」というイメージもわく。併合が成立した一九一〇 年の条約は正式には「韓国併合に関する条約」だから、「韓国併合」の方が自然だ。
 海野福寿・明治大名誉教授によると、戦前は「韓国併合」が基本であり、今日広く使われている日韓 併合、日韓併合条約という表現は戦後に定着したという。記者も中学・高校では「日韓併合」と習った。 海野さんは「日本が韓国を併合したという語感をうすめ、対等合併感をにじませようとする意図が潜ん でいたか」と推測する(岩波新書『韓国併合』)。
 今年は併合から百年。初めて訪韓した岡田外相は会見で「併合された側、痛みを覚える被害者の気 持ちを決して忘れてはいけない」と述べた。その通りだが、本気なら「韓国併合」という言葉をもっと率先して使ってほしい。(淳) 中日新聞 2010年2月13日 夕刊4面 文化面
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松本健一第1話:「『美しい国』とは『日本とは何か』に対する安倍氏なりの答え」
言論NPO
http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-170.html

「美しい国」とは「日本とは何か」に対する安倍氏なりの答え

安倍総理の「美しい国」は分かりにくいと言われています。しかし、この「美しい国」というのは安倍氏なりの一応の答えなのです。問いは何かといえば、ナショナル・アイデンティティーとは何か、日本とは何か、です。しかし、これは現在の日本に限った問いではありません。その国独自の原理は何なのか、アメリカとは何なのか、あるいは韓国は何なのかという、そのことへの答えが世界各国で今、問われているのです。

その背景には、世界のグローバル化があります。特に金融、経済、情報はもう完全に一体化してきている。金融の問題でも、一国の民族資本が自分の国に投資しているということはほとんどなく、ヘッジファンドを中心とする国際資本が世界のあらゆるところに投資している。情報も、瞬時に世界でCNNが見られる状況です。

つまり、金融、経済、情報という分野は、共通の市場、共通の価値観、共通の数字で表される形になります。そうすると、実際には自分の国とは何なのか、ということがわからなくなってしまう。つまり、お前の国は何だということをはっきりさせない限り、国際市場で金持ちになりたいというビジネスマンが生まれるだけの話になります。

しかし、特に教育という問題では、国際的なビジネスマンを生み出せばそれが教育になるのかといえば、そうではないわけです。今、最も危機にさらされているのが、その国独自の言語とか文化、あるいは文化や民族のかたちやシンボルのようなものです。これは如何なるのか。それを明らかにしなければならない世界史の段階にこの日本もあるのです。

英語教育をして国際社会で通用すると思っても、外国に行った場合、お前は英語はよくしゃべれるけれどもではお前は何なのか、自分の国に愛着を持っていないのか、自分の国を美しいと思っていないのかと言われることになる。世界の国々では逆に、自分の国はいとしい、美しいと思っている人々が多いわけです。

そうすると、マシンのような国際ビジネスマンが来たところで、自分の国を愛していない連中なのですから、私たちの文化や言語を大切にしてくれないと思われるだけです。グローバル化した世界の中では、その国のナショナル・スタンダードというものが大事に思われていて、それぞれの国のナショナル・アイデンティティーが問われています。

それが問われたのは、実は安倍政権ではなく、小泉政権のときでした。しかし、小泉さんは「ぶっ壊す」「官から民へ」と言い、竹中平蔵氏はもっとグローバル・スタンダード志向で、特に金融や経済だけに向かっていた。

小泉さんが就任演説で使った「米百俵」という逸話があります。それは、長岡の支藩から送られてきた100俵の米だけでは3日で食べ終わる。4日後からはひもじい思いをして、どんどん国が衰えていくのなら、おれにこの100俵をくれ。そうすれば、学校をつくり、自分たちの子供を産んだときには必ずこういう国にしてあげる。つまりきちんと教育し、そして国として自立したシステムをつくってあげる。つまり、国家もこういう形をつくる、こういうデザインで描く。それから、社会構造もこういうふうにしていく。そのためには新しい人材をつくるための学校が必要なんだという話です。

小泉さんが巧みだったのは、このエピソードを使いながら、みんな構造改革によって苦しいだろうけれども我慢しろ、国民は痛みを分かち合え、というスローガンにこの話を使ったということです。しかし、本当は、そのスローガンを使って「耐えがたきを耐えよ」と言うためには、日本国民に対しては30年後にはこういう国家ができて、こういう社会構造になっていく、だから耐えよと言わなければならなかった。つまり、国家デザインや社会構造はこうなると提示しなければならない。しかし、小泉さんは全くそれはせず、国家デザインを提示しなかったわけです。

では、道路公団民営化にしても郵政民営化にしても、そのデザインを描いたのは誰かといえば、これはかつてであれば自民党で、自民党の政策集団である派閥でした。郵政族、道路族、建設族といった族議員がどういう法律をつくり、どういうシステムにしていけばどういう動き方をするということの設計図をつくった。つまり、政策マシンとして働いたわけです。ところが、それを抵抗勢力と言ってしまったわけですから、彼らは描いてくれない。その結果、例えば道路公団民営化に関しては、それを描いたのは全て国交省の役人なのです。「官から民へ」と言っていながら、実際のデザインは全て官が描きました。

小泉さんの「改革」には異を唱えないという形で安倍さんは出てきたのです。今回の言論NPOのアンケートでも、官僚の安倍政権への支持率は他に比べて高くなっています。それは、役人がやりやすい状況になってきているからで、その状況は小泉さんがつくった。ただ、安倍さんは小泉氏のように相変わらず「ぶっ壊す」と言っているわけではない。ポピュリストではない、人気受けを狙って行動する人ではないのです。

では、この人は何なのかというと、どちらかといえば、非常にステーツマンです。日本語で言うと、官僚に近い政権担当者。やっていることは実務者ふうなのです。

⇒第2話を読む
ハンチントンとクリント・イーストウッド
http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-169.html
小泉さんは、本当は国民の前に、グローバル化した世界の中で日本はどのように生き残っていくのか、日本の固有性とは何なのか、そういうものは要らないのか、構造改革によってどういう国家、社会になっていくのかと提示しなければならなかった。つまり、問われていたのはナショナル・アイデンティティーだったのです。それを提示しようと、安倍氏なりに出した答えというのが、「美しい国」だということになるわけです。ですから、安倍政権は一応は答えを出しているのです。

アメリカのブッシュ大統領は、同じ問に対して、ハンチントンの「文明の衝突」の論理をそのまま戦略に使ったのです。アメリカを中心とする近代文明というものが、世界の幾つかの文明の中で一番いい価値を持っている。自由と民主主義と法の支配。一言で言えば、「リベラルな民主主義」を提示する。しかし、この民主というのは、日本もタイも、イギリスもインドも民主主義を理想としているわけで、このようなものは絵にかいた餅のようなものです。その国のやり方で民主主義を行ってしまうわけです。

イランのアフマデネジャドですら、我々を独裁国と言うのはおかしい、民主主義投票によって自分は選ばれている、と言っています。リベラルデモクラシーと言っても、色々なやり方があるし、単に手続手段であるという考え方もできる。その国その国によって全部違う形の結果を出してくるわけです。民主投票すれば民主主義的な人間が選ばれるかといえば、独裁的な人間が選ばれることもある。

ハンチントンが出した思想は何かといえば、我々のアイデンティティー、リベラルな民主主義の本質を表明するには、その敵は誰かと設定すればいいというのです。それがブッシュの戦略の基になった。そうすると、要するにイラクであり、フセイン、イランのアフマデネジャドや北朝鮮の金正日であると敵を設定して、その敵をたたけば、我々の自由な民主主義の敵を悪という形で弾劾、攻撃できる。そこで、アメリカ人は自分たちの自由な民主主義にアイデンティティーを抱くことができるという構図になるわけです。

アメリカが自由な民主主義の国であるという証明は、外にその敵を設定すればいいという戦略になる。それはアメリカの病理のようなものです。第二次大戦中は日本が敵であり、戦後になると共産主義のソ連が悪の帝国である。共産主義の勢力によって自由を侵しつつある北ベトナムが敵であると設定した。そういう形で、常に外に敵を設定することになった。つまり、あのような多人種、多民族、多文化、そしてそれぞれの文化を保持している国では、内なるアイデンティティーが困難なわけです。ですから、余計に外に敵を設定する戦略になる。

この戦略に対してある意味で異を唱えたのが、映画の「ミリオンダラー・ベイビー」でした。これは安倍氏自身が私の解説文を著書の「美しい国」で引用しているため、私も触れますが、映画自体は、娘を失って孤独になっている初老のトレーナーと、それから自分のアイデンティティーがない、30歳になって相変わらずレジ打ちをやっている女性、つまり、自分の居場所とかアイデンティティーという自分の誇りの根源がない女性が一緒に、要するに誇りを取り戻していくためにボクシングをやるわけです。ドラマ自体は悲しい結末で安楽死の映画と捉える人がいるかも知れませんが、その答えを、女性が誇りを見出していくテーマだと捉えれば、これは悲しい映画ではないのです。そして、そこに重複して設定されていたのは、つまりグローバル化した世界の中で、アメリカがいかに生き残っていくのか、というテーマでした。

その背景となっているのは、アイルランド人の物語です。アメリカが自由と民主主義の国であると思って、自由やチャンスを求めてみんなアメリカに来たが、我々アイルランド人だけは、もともと何も持っていない中でそういうアメリカをつくった、という思いがある。

アイルランドは農業も牧畜もできない土地であるのです。だから、みんな財産を持たないで、言ってみればこぶし1つだけで、つまり肉体だけでアメリカに渡ってきた人々なんですね。その代表が言ってみればケネディ一家や、あるいはレーガンもそうだけれども、とにかくアイリッシュ系ということは、要するにもともと何も持たないで国を出てきた、そしてすべての人間に機会がある自由な民主主義の国というものを自分たちがつくったという自負がある。つまり、アメリカの内なるナショナル・アイデンティティーというのは、本当はあるんだ。その代表的なシンボル的な存在がアイリッシュ・アメリカンの歴史だ、という思いがある。

だから、第二次世界大戦が始まってくるような時期につくられたのが、アイルランド移民の「風と共に去りぬ」なのです。

あれは昭和14年、つまり、もう欧州では戦争が始まり始めたときの映画です。アメリカはその前に世界大恐慌があるし、そのもっと前の第1次大戦後はバブルもあった。それがはじけて欧州は英仏対独の戦争が始まり、ひどい時代になっているということで、アメリカの一体性が失われているわけです。戦争にも、ナチス・ドイツを敵としてイギリス側に参加していくわけだけれども、それとともに、内なるアメリカの物語を再確認しようというのが「風とともに去りぬ」なんです。これは、スカーレットが「タラに帰ろう」と何度も言うわけでしょう。何か失敗すると、必ずタラに帰ろう、タラの農場に帰ろうと言うでしょう。タラというのは、アイルランドの民族的聖地の名前です。それで、なおかつスカーレットが南北戦争に敗け、財産を失い、レッド・バトラーが帰ってくる時に、落ちぶれたという格好は見せたくないというので、焼け残ったカーテンでドレスをつくるでしょう。あれが何かというと、ナショナルカラーのアイリッシュ・グリーンなんです。私にはアイルランド人の誇りしかない。他に何も持っていないけれども、誇りを持って生きていく、という物語なのです。

戦争とか危機的な状況になって内部が分裂しそうになるときに、アメリカでは外に敵をつくってたたけばいいという考え方と、いや、そうではなく、内なるアイデンティティーの物語をもう1度再確認しようという考え方が出てくるわけです。

「ミリオンダラー・ベイビー」がまさにイラク戦争のような危機的状況につくられたのは、クリント・イーストウッドがある意味ではブッシュ以上の戦略家であるとも言えるわけです。軍事力によってではなく、文化力によってアメリカを再構築した、ともいえる。

ハンチントンはユダヤ系アメリカ人です。地球上で自らのパトリを失ったユダヤ人は、世界を1つの原理にしてゆくべきだ、と考える。それゆえ、アメリカが世界で一人勝ち残っていくため、まず自らの外に、自由と民主主義の敵をつくれば、アメリカは一体化できると考える。ところが、クリント・イーストウッドの方は、そういうユダヤ系とは全く逆に、アイリッシュ系という我々のところにアメリカの根源がある、イギリス人はアメリカを占領したけれども、アイルランド人はアメリカをつくった、というふうに伝説をつくるわけです。だからこそ、この「ミリオンダラー・ベイビー」はアメリカのアイデンティティー再構築の物語だと私は書いたのです。安倍さんは、その意味がすぐにわかって、それを「美しい国」に使いました。つまり、世界の国々が今問われているのは、アメリカを含めて、ナショナル・アイデンティティーの再構築だ、という認識が安倍氏にはあるのです。

クリント・イーストウッドの「硫黄島」で描いた物語についていえば、一方の「父親たちの星条旗」という作品は、まさにイラク戦争への批判でした。国家が戦争という状況の中において、いかにヒーローをつくり出すか。アメリカ国民のヒーローをつくり出して、我々がやっている戦争はこんなに美しい、正義の戦争であると宣伝する。これが要するに我々の民族の今やっていることであると。そこにいろいろ多人種、他民族、多文化の人々を登場させ、こうした色々な人が集まってアメリカをつくった、この硫黄島の戦争もそうだ。こういうヒーロー達が苦労してかち取った戦争の勝利なんだ、という演出です。そのために、そういうヒーロー達をつくり出して、全国でイベントをやり、アメリカの「正義」の戦争に、みんなの金を出させるわけです。国の債券を買う、ボランティアでおカネを集める。つまり、国家が戦争で商売しているのです。硫黄島にアメリカ国旗を立てたという物語、ヒーロー達が苦労してかち取った勝利なのだから、国民はもっと金を出せというふうに宣伝して、常に国民をごまかしているのが国家である。イラク戦争で、女性兵士のヒーローをつくり出したのも、これと同じ構図です。

逆に、もう一方の「硫黄島からの手紙」は日本のあの当時の非民主的な体制はひどかったけれども、日本の兵士たちもそのように常に国家の正義に駆り立てられて戦争で苦しい思いをしていた。補給もなく、5日で全滅すると言われていた硫黄島を36日間持ちこたえさせたと。やはり戦場において一番悲惨な目に遭うのは、そういう兵士=国民なのであると言っているのです。

イーストウッドはイラク戦争の批判は一言もしていませんが、見ている人は今のアメリカの戦争状況と二重映しに受けとるわけです。

⇒3話を読む
http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-168.html
安倍氏の信条とステーツマンとしての安倍首相

安倍さんが最初に国会でやったことは何かといえば、教育基本法の改正でした。小泉さんは教育基本法の改革という、戦後何十年言われてきたことに取り組んだのです。が、本人が「米百俵」のエピソードを引いたにも関わらず、教育改革ということについての意気込みはなかった。考えていたのは郵政民営化だけで、だから教育基本法の改正を国会で成立させることはほっぽり出して去ってしまった。

安倍さんはそれを引き継いで、自分は教育改革をする、日本の戦後60年にわたる占領教育、日本人の誇りが失われている、という状態を変えていく。そのためには、まず日本を支える国民を作ることをしない教育基本法の改正をする、ということで法案を引き継ぎ、それをあっという間に国会で成立させたわけです。

安倍政権のメインテーマは、教育基本法の改正と、憲法改正でした。これは本人が言っているし、それによって戦後日本の占領状態の継続の終焉を成し遂げたい、と思っていたことは分かります。

この二つともなかなか難しい問題でした。が、その2つが彼にとって最大の戦後政治の超克であり、戦後政治の総決算だったわけです。

教育基本法を改正するというのは、ナショナル・アイデンティティーに関わる問題なのです。憲法というのは、英語でいうと、コンスティチューションです。要するに、その国の原理とは何なのか、日本の原理とは何なのか、ということを具体的に表すために憲法がある、というのが近代国家です。憲法というのは、この国は何なのかという外形的な原理であり、そういう国を支える国民、つまり国民の内面的な原理をどうつくるかということが、戦前であれば教育勅語だったし、戦後であれば教育基本法だったのです。

ナショナル・アイデンティティーの再構築のために、憲法という外形的な原理と、内面的な原理との両方を連動させて改正するという本来の形でいえば、憲法改正などはいつ実現できるかわかりません。しかし安倍政権は教育基本法の改正については、その内容評価を別にすれば、すでに易々と通してしまった。一政権に出来るのが一テーマだとするならば、最大のテーマはもうやってしまった、ともいえるのです。

さらに、これは言論NPOの昨年8月初めのフォーラムがその転換を作り出したのですが、懸案の日中関係も一応首脳会談をやりました。それは小泉政権がつくり出した破産状況で、外交関係さえ成り立たなくなっていたアジア外交を乗り越えるという課題でした。

総理になる前までに安倍さんがとっていたスタンスは、その歴史認識とは何かといえば、「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちとほとんど一緒でした。そのとき一番親しかった自民党の仲間が、郵政選挙に落選して今度自民党の参議院選に出る衛藤晟一さんです。「新しい歴史教科書を作る会」に呼応する形で、自民党の中でやっていたのが衛藤晟一と安倍さんでした。日本の歴史を語り直し、書き直すことによって、日本の美しさや独自性を表していこうということを一緒にやっていた。そこに原点があるのは、今回、自ら反対を押し切って衛藤さんを復党させたことからも分かります。

しかし、安倍さんは総理になるに当たって、こうした歴史認識を大きく修正する必要があったのだと思います。

彼はステーツマンですから、首相になれば別のレベルの政治的判断が当然あります。靖国に行き、国の戦争で亡くなった人々をお参りするというのは政治家一個人の信条のレベルではそうであっても、国家主導者となれば別の政治的な判断をする。そのメッセージは言論NPOの昨年夏の『東京-北京フォーラム』でも歴然と出ていたのです。あのとき安倍さんは、靖国のことも日米同盟のことも一言も言わない。日本外交のこれからの一番のテーマはアジア外交であると言った。日中関係の改善に向けて、あそこで見事にカーブを切ったわけです。

首相になるということが決まった頃、つまり、あのフォーラムがあった8月の段階の後から、自分一個の信条とすれば靖国に行く、あるいは新しい歴史教科書をつくる会のメンバーとほとんど歴史観を共有しているということとは別に、総理や国家指導の立場に立つステーツマンとすれば、実際にはそれでは済まない。そういう政治的判断をした段階からそれまで付き合っていた人とも会わなくなったのです。

安倍さんのこうした変化はある意味で当然なのです。しかし、それに代わる論理体系を「美しい国」の実現に向けて作り出せたわけではありません。しかも、ステーツマンというのは結局、法律で全部それを制度的に決めていくわけですから、教育再生についても法律で決まったところで、「日本とは何か」、「美しい国」だということを国民が納得、実感できることはないのです。そこのところで、安倍さんは「美しい国」とはどういう国かという説明をしなければならないときに、ステーツマンであるから、その同じ標語を繰り返しているだけになってしまう。

安倍さんはその「美しい国」とは何なのかと言われると、せいぜい、戦後教育によってモラルハザードの状態が社会に現れているという否定的な形でしか説明できないというジレンマに陥ってしまっているのだと思います。

ナショナル・アイデンティティーというのは、金融や経済、情報という数字化できるものではなく、その国の文化や言語などに関わるわけで、そこは国に固有のものであるということを言葉で言わなければならない。要するに、その国の歴史や文化とはどういうものかというと、これは言葉、もしくは文学的な才能の世界で、ステーツマンではなかなかできないのです。例外はゲーテぐらいでしょう。

その結果、安倍政権が具体的にやっていることをみれば、例えば防衛庁を防衛省に格上げしたわけですが、どう見ても、その国の独立とか国を守るということが軍事的な意味でメッセージとして伝わってくるわけです。ですから、「美しい国」と言っているが、それはどちらかというと「強い国」だ。安倍さんへのイメージの根本には、彼が拉致問題では絶対引かないということがありますから、北朝鮮を敵とするというメッセージになってくる。安倍さんの考えている「美しい日本」とは、現実に顕れている事象でみれば、どうしても軍事力において強いということが美しい、軍事力が強くなければ外交も強くなれないというメッセージとして国民に伝わってしまうのです。

⇒第4話を読む
http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-167.html
安倍氏が掲げる「美しい国」とは「誇り」である

安倍首相が今回、衛藤晟一さんを落選しているにもかかわらず自民党に復党させようとしたのは、彼の内閣に歴史認識といった意味でのメインのブレーン、同志が全くいないからです。塩崎さんはブレーンですが、美しい国とか歴史や文化、つまり国の誇りとは何なのか、日本人の誇りとは何なのかいうことを語る人ではない。まさに実務的なステーツマンです。幹事長の中川秀直さんの場合には、むしろ森さんから引き継いで、送り込まれている政局のわざ師という側面が非常に強い。「美しい国」を言葉で語るところで、具体的に相談できるメンバーが全くおらず、小泉さんはそんなことは全く関知しないという感じでしょう。

ですから、安倍さんはむしろ、中曽根康弘元総理のところに週に1回通っていると言われています。憲法改正にしても教育基本法の改正にしても、戦後政治の総決算、占領政治を超える、という方向性によって、歴史哲学をある意味では一貫して持っているのは中曽根さんだけだからです。しかし、中曽根さんはもう政局を取り仕切るバイタリティーはないから、長い見通しの形でこれとこれだけはやっておきなさい、靖国に行けば中国との国交の問題が頓挫してしまうから、靖国参拝は自分の信条であって、その自分の信条と国家指導者の政治的な判断というのは別にしておきなさい、そういう大局的な原則を教わっているわけです。

では、安倍さんが実現していくべき「美しい国」とは何なのか。安倍さんの「美しい国」とは、民族の誇りを意味しています。彼の言葉では、アメリカの占領体制がある意味でずっと続いており、その下でつくられた教育基本法や憲法を変えていく、経済も市場原理主義ではなく、教育も国家が指導して公教育をやっていくという方向が分かります。それが要するに、美しい国になる。つまり占領体制や、アメリカ一辺倒が醜いということです。

では、アメリカの占領体制の中でつくられたことを変えて、取り戻すべき日本の原点は何かというと、伝統的な自民党員であれば、地方の文化的伝統とか地域のコミュニティーというところをみんな知っている。しかし、彼の場合には、東京の町の中の政治家の家庭で生まれて、そのような体験がない。そこで公教育と言えば、それは愛国心という言葉で言われるものに近くなってしまう。これに対して郷土愛ということを、私が提案しました。教育基本法前文で、「国と郷土を愛する態度を涵養し」となりましたが、郷土愛、つまりパトリオティズムであって、ナショナリズムになってはいけない。「国を愛する態度や心」の表現には公明党が反対しました。

パトリオティズムというのは、訳の1つは愛国心ですが、それは本来的にいうと祖国愛であり、同時に郷土愛なのです。訳が難しく二重性を持っているから、パトリオティズムという言葉で私は言っているわけですが、要するにパトリ、あるいはギリシャ語で言うとパトリアに対する愛となるわけで、これはファーザー、ファータ、つまりキリスト教で言うところのパードレと同じ語源です。神父さんと同じ語源で、「シンプ」さんの「プ」は「お父さん」です。パトリアというのは、父祖の地です。それは父祖の地の神様であり、父祖の地で育っている両親であり、その同胞であり、彼らの郷土であり、これを全部愛するということになるわけです。ですから、それがそのまま祖国愛という言葉にもなってくるし、同時に郷土愛という、ふるさとの風土を愛する、あるいはふるさとの昔の友達を懐かしく愛するという意味になる。

安倍さんは本来、そのパトリオティズムを実現するために、公教育の再生ということを言っているわけです。ですから、教育再生会議のメインテーマは公教育です。公教育を再構築し、復活させなければならない。しかし、そのようなメインテーマからすると、「美しい国へ」には、教育バウチャー制度とか教育に自由競争を持ち込めばいいという主張が入っていますが、安倍さんとしてはそれよりもやはり、パブリックの役割を再構築したいはずです。戦前に戻れば「滅私奉公」つまり国家教育になりますが、しかし公という概念は、教育基本法には入っていなかったのです。そのためにパトリオティズムのような形で公教育というものを国民に教えていくべきだという立場にあるのです。

現在の教育再生会議の方向は安倍さんが望んでいたものなのか、かなり疑わしく私には見えます。第一、文部科学省の意見が入りすぎている。それに、ばらばらの立場の人が入ったために、あれを入れろ、これを入れろという話になっています。それであのような全然まとまりのない構想になってしまった。その中で一番メッセージ性が強いのが、バウチャー制度や、ゆとり教育を改めろということです。

しかし、安倍さんには、やはり社会の公的な役割を強化するという思想があります。そこは小泉さんとは全然違います。小泉さんが新自由主義、市場原理主義だったとすれば、安倍さんは小泉さんの形をひっくり返しているのに近い。小泉さんの、例えば二項対立の設定と抵抗勢力、そして敵には刺客を送るという対立候補を立てて徹底的にたたくというやり方ということにも、安倍さんは反対でした。政治的なDNAを見れば、安倍さんは常に岸信介のDNAと言いますが、お父さんの安倍晋太郎さんの方のお祖父さんは安倍寛で、小泉さんのお祖父さんは小泉又次郎という、近衛体制の翼賛選挙の地ならしをした人だったのです。その翼賛選挙に反対すると言っていた一人が安倍寛でした。近衛の翼賛選挙は、「おれの政策に反対するやつは全部刺客を向ける」という形でした。その形を小泉さんはとった。それをじっと見ながら、安倍寛の孫である安倍晋三は、そういう翼賛選挙的なやり方はよくないと思っていたはずです。

⇒第5話を読む
http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-166.html
小泉政治とは全く異なる政治だと、安倍氏は説明すべき

小泉政治のやり方と安倍政治のやり方とは全く違うのです。安倍さんが小泉政権の大勝した郵政選挙の基盤に乗って圧倒的多数派にいるというのは皮肉ですが、復党問題では小泉さんのやっていた方向性と逆を、支持率が落ちても、ある意味では確信犯的にやっている。また、久間防衛庁長官の、イラク戦争は小泉首相個人の考えでやったという発言を許しておくということも、安倍さんにはそれに近い考え方を持っているところがあるからでしょう。小泉さんとは、かなり考え方が違うのです。

確かに同じ森派にいますが、小泉さんが基本的な体質がポピュリストで、問題を二分化して、どっちをとるんだという形で問題を単純化して大向こうをねらうのに対し、専門家に相談しながらこちらの方がややベターであろうとステーツマン的に選択をしていくというのが安倍さんで、政治的な資質が全く違う。安倍内閣の支持率は落ちているかも知れないが、森さんのときのように8%まで落ちているわけではない。今は30何%まで落ちましたが、40%あれば高い方です。橋本龍太郎内閣も23%程度、小渕内閣も多いときで23%程度、低いときには18%程度でしょう。

むしろ、安倍さんは国民に対し「自分は小泉さんとは違う政治をやっていくんだ」と言えばいいわけです。安倍政権が泥沼に入っているとすれば、それを言えないところが最大の原因になっています。あれだけの人気の高かった小泉さんがいるわけで、それとは違うんだと言えば、復党問題でも国民は納得できるわけです。脱党したとはいっても、郵政がアメリカの市場解放要求に押切られた面があり、そこで反対に回っただけで、安倍さんにとっては、もともと自民党の同志なのです。思想的に一番近い衛藤晟一さんを復党させることについても原理が一定しているのです。原理が言えないから、何やっているのかわからない、じっと耐え忍んでいるような感じになる。

市場原理の新自由主義ではなく、公的な役割を見直し、一番苦しんでいる国民は救っていかなくてはならないという安倍さんは、むしろ伝統的な保守主義です。自由社会なのだからという形で小泉さんは突っ走り、竹中さんはその路線を、まさにアメリカ経済学を学んできたことによって先兵となって走った。安倍さんの場合は、感覚的には、従来の自民党の派閥があり、それをまとめて、それぞれが代弁する利権を通じて国民に富を配分していく形で社会保障をしていく。ですから、ある意味では大きな政府になってしまうでしょう。

まさに昔の自民党の手法ですが、安倍さんは年齢も若く政界のキャリアも短く、まだ何かやってくれるのではないかという期待が国民にある。だから、小泉さんと違うことをやっているとはそれほど言われていない。小泉改革を継続していくという建前が前面に出ている。

日米同盟に関していえば、アメリカと同盟関係は維持するけれども、アメリカの言いなりにはならないという気持ちがある。だから、中国、韓国には最初に飛んでいって、その後、ヨーロッパに飛んでいき、まだアメリカには行っていない。アメリカにとってみれば、日本の首相というのは、まずアメリカに飛んでくる。小泉さんは、まず向こうに飛んでいくどころか、プレスリーの歌まで歌った。オキュパイド・ジャパン(占領下の日本)そのままの精神でしょう。安倍さんは、アメリカに占領されたという意識と、その裁判で岸信介はA級戦犯にされた、そういう意味でのコンプレックスからの解放心理は強いと思います。

今の状態で、日本が具体的で現実的な外交選択をすると、日米同盟しかないわけですが、グローバリゼーションの時代においては、「自分の国は自分で守る」という戦略を自分たちでとれということになってきました。アメリカもアメリカしか守らないことになったわけです。9.11テロでも、アメリカは文明世界を守ると言ってはいるが、実際はアメリカには世界に蔓延するテロを入れないという方法をとったわけです。国内を厳重にハリネズミ状態にして、確かにアメリカの中では全くテロが起きていないわけです。また、敵を、あれはテロリストだと言えば、政府はどんな弾圧でもできるということをブッシュは世界中に教えました。それは、要するにアメリカの基本政策がアメリカンファーストであり、自分の国しか守らない。そのときに、世界各国は、では自分の国とは何なのか、アメリカとは何なのかという問題になってくる。

その結果、外に敵をつくって、あれが敵だという戦略になり、当然ナショナリズムが高まる、そういう形に世界全体がなっている。日本もそれに近い方向に行くかもしれない。しかし、アメリカの場合にはクリント・イーストウッドなどが、我々には内なるアイデンティティーの物語があるんだと具体的に出してきています。日本の場合も、安倍政権下の日本も本当は言わなければならないのです。我々の国はいかなる国であるのか、なぜ美しいのか。

今まで安倍さんは、新しい歴史教科書をつくる会の歴史観で、我々は間違った戦争したのではないという言い方で、それに同調していたわけです。それは違うと、例えば中曽根さんなどに言われて、彼らとつき合わないだけではなく、歴史観とも余りつき合わないという考え方になった。そこで、思想的な体系が統合されなくなっているというふうに見える。安倍さんは、若い、まさにステーツマンなのですが、その政治的立脚点が原理原則のところで今揺れていて、ステーツマンとして国家デザインや美しい国をどう提示していくかという表明がないまま、防衛庁が防衛省に格上げされる、あるいはすでに教育基本法を改正してしまった。では、実際に教育再生会議がやっていることはどうかとなると、その構成メンバーでさえ整合性がないわけです。

メッセージ性として、「美しい国」とは何かと言えば、それは歴史によって日本人が誇りを持つと言うところまではいいのですが、では、誇りの根源の歴史は何かというと、まだ新しい歴史教科書の会の尾っぽを持っているため、それを言えない。それで政権の支持率が低下してしまうわけで、参議院選で負ければ一気にひっくり返ってしまうでしょう。けれども、民主党にそれを倒すようなきちんとした国家デザインがあるかと言うと、ない。小沢さんは選挙に勝つということだけ言っていますが、では、どのように勝つかといえば、選挙戦術のようなことばかり言っている。国民が欲しているのはそれではなく、民主党はどういう国を目指していくかということですが、そこを出してくれと言っても、民主党はごった煮です。

小泉さんとは違う政治家である安倍さんを、小泉さんは国民の受けをねらって選んだ。若い、マスクがいい、スマートだ、血筋もいい、女性受けもするだろうということです。国民に向かい合う政治家だという視点では選んでいないでしょう。それでは余りうまくいかないと小泉さんは思っていたかもしれませんが、後のことは知らないという感じではないでしょうか。

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http://www.genron-npo.net/politics/genre/generaltheory/post-165.html
安倍総理に求められているのは「公」の中身を語ること

世界がグローバル化していけば、ナショナル・アイデンティティーを問う動きが必須となり、それを明確に意識して打ち出していくメッセージ性のある、国家デザインと歴史哲学を持つ政治家が必要とされています。では、それに値するような人物がいるでしょうか。安倍さんは、問いを受けとめるところまでは正しかったという地点に来たのですが、答えを出し切れていない。教育基本法の改正や憲法改正まではいいのですが、新しい憲法をどうするのか、その中で出していく美しい国のイメージはどうなのかということを提示しなければなりません。

世界の中の日本は金融でやっていくのではなく、例えば美しい水田があり、GDPでは5%にもならないかもしれませんが、農村を中心としたコメづくりの風土を作って、それを守ってきた。しかし、今、地域のコミュニティーはほとんど崩壊している。実際に地方でタウンミーティングをやれば、当然、日本の地方の山村がどのように崩れ、日本の地方都市がいかにシャッター街になっているかが見えるはずですが、それは全部"やらせ"だったわけです。地方にお金がないなら、ボランティア制度のような形で緑や山林、田畑を守っていく、地方の崩壊に対してはこういう手当てをする。その人々にお金ではなく誇りをあげる。グローバル化の世界の中では、農業や林業、中小企業や地方の小商店は、国際資本に太刀打ちできない。しかし、国は彼らによって守られているのだ、と。そういう形で国民をエンカレッジしていくという形をとればいいのです。

しかし、安倍さんが国民に誇りを持たせるという形で路線を打ち出ても、その国民の思いをチャンネルとして吸い上げるのは官僚しかルートがなくなってしまった。安倍さんはステーツマンとしては有能だと言いますが、実務的な官僚が政府批判をする人々の意見はできるだけ避けておこうとする。教育再生会議など色々なことをするとしても、実際にそれを選ぶのが官僚になっている。つまり、小泉さんが「官から民へ」といいながら、官僚をそれだけ強くしてしまったのです。

それでも、リタイアする団塊の世代には、まだ知的な蓄積、スキルがあります。彼らは年金があるのですから、別に金は要らないわけです。この人々の金を、それぞれ趣味など好きなことをやって吐き出させて社会を活性化させるということを堺屋太一さんは主張していますが、私は違うと思います。戦後の我々の団塊の世代ぐらいまでは、戦後教育の中でみんな私のために生きろ、と教えられてきた。戦前は国家に命を捧げたのに対し、私の命を大事にし、私の権利を守り、私の利益を追求せよ、と教育された。それで団塊の世代が一応、家や車を持ち、家庭も持って子供たちにもいい生活をさせたわけです。それがリタイアする時点になったら、子供の教育がめちゃめちゃになっている。それまでは「私」のために働いてきたのだから、今度は自分たちが「公」教育にタッチし、崩壊しつつある地域社会を再生するために、自ら社会にボランティアで出ていくべきです。

「私」という字はノギヘンにムです。ノギとは、木の上に木の実が実っている、稲の茎の上に稲穂が実っている状態で、この収穫物は私1人だけのものであるとヒジを立てて主張するのが「私」という字です。ムは象形文字で、この字だけで「わたくし」と読みます。「公」というのは、ムの上にあるのが日本の数字で言うとハで末広がり、広げていくわけです。私がひとり占めすることに背いていくというのが、「公」という字です。団塊の世代は、私のために一生懸命ひとり占めする生き方をしてきて、それで年金をもらえるのですから、それをむしろ後生に開いていくべきです。

公教育が大切だと言っても、安倍さんが言っている限りにおいては国家権力に見えるわけです。戦前の滅私奉公に戻るのではないか、と。公教育とは何かということを懇切丁寧に説明したことがないからです。戦前の厭な記憶があったり、戦後は全て良かったのだ、と思っている人々にとってみれば、どうも不安になる。教育基本法にあった「個人の尊厳を重んじ」の、個人という言葉は日本語にはありません。日本語にある言葉は「私」という字です。ですから、日本人は全部「私」に収斂させて理解します。戦後教育の中で育った世代は、みんな「私」のために働いている。私の利益を追求して何が悪いんだということになる。ホリエモンも村上ファンドも。そうではなく、お前がそのように自由に利益を追求できるのは、安定した社会、法やルールが守られる社会があって、このために社会、国家がどのくらい力を使い、国民のみんながそれにいかに協力しているか。その協力なしには、私的な自由競争もできない。そうした社会や国家に対する統一した考え方で言われていません。

公教育を言う安倍さんの保守主義は、小泉さんの新自由主義と違って、政府はパブリックを大事にして救うべきものは救っていかなければならないという方針に当然につながってきます。小泉さんは公共事業を全部なくすという政策をとりましたが、それはおかしい、セーフティーネットをつくれという流れになっている。では、こうした方針を国家デザインの上でどうやって説明するのか。私は公共事業を復活させるべきだと思っています。しかし、それは今までのように道路をつくり、山村や山林、川の流れをつぶすというのではなく、むしろ美しい自然や風土に戻す。これは例えばドイツなどではやっているわけです。河川の護岸工事を必要なところには施すけれども、全体の川の流れは平野の中をゆったりと流れていくように、自然の土手の川の状態に戻していく、そのために公共事業をするわけです。

それは、どういう国が美しい国かというアイデアやデザインがない限りはできない。美しい日本をもう1度再構築するためには美しい自然が必要であり、それを守っていくという地域の公的な社会、つまり共同体、コミュニティーが必要である。それが作り上げてきた地域文化というものをもう1回取り戻すために国が金を使うという形でやっていい。保守主義なら、そういう国家デザインがなければだめです。確かに公共事業には談合がつきまとい、金は地元の建設業者に流れ、町長が建設業者の社長になっているような構造がありますが、コンクリートを使って公共事業をやるというのではない公共事業のやり方がある、ボランティアで年金世代、団塊の世代が出ていく、彼らには金を出す必要はないが、あなた方によって日本の誇りは再構築されるというようなメッセージ性があればいいのです。

安倍さんはスローガン的にはいいところを出していますが、では、公教育を復活させようというときの公というのは何なのか。戦前のような国家ではなく家族を守ってくれる地域社会であり、地域社会が守ってきた平和で美しい郷土である。ですから、パトリオティズムといえば祖国愛の前提として、郷土愛というものが大切になってくる。きちんと結びつきます。公の中身を語り、美しい国の中身を語るべきなのです。美しい国というものと公というもの、そして公的な公教育、全部つながっているのです。
更新日:2007年03月16日
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松本健一氏松本健一(評論家、麗澤大学国際経済学部教授)
まつもと・けんいち

1946年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。京都精華大学教授を経て現職。主な研究分野は近・現代日本の精神史、アジア文化論。著書に『近代アジア精神史の試み』(1994、中央公論新社、1995年度アジア・太平洋賞受賞)、『日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」』(1998、東洋経済新聞社)、『開国・維新』(1998、中央公論新社、2000年度吉田茂賞受賞)、『竹内好「日本のアジア主義」精読』(2000、岩波現代文庫)、『評伝 佐久間象山(上・下)』(2000、中央公論新社)、『民族と国家』(2002、PHP新書)、『丸山眞男 八・一五革命伝説』(2003、河出書房新社)、『評伝 北一輝(全5巻)』(2004、岩波書店、2005年度司馬遼太郎賞、毎日出版文化賞受賞)、『竹内好論』(2005、岩波現代文庫)、『泥の文明』(2006、新潮選書)など多数ある。
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基調講演 : 松本健一 ( 評論家、麗澤大学国際経済学部教授 )
東京−北京フォーラム
http://www.genron-npo.net/world/genre/tokyobeijing/post-41.html
基調講演

 皆さん、おはようございます。私は、今日話そうと思っていた軍事の話を中谷先生がお話しになったので、別の話をしたいとおもいます。

 二十年前、私は東京オリンピックによって日本が劇的に変わったという論文を書きました。中国でも翻訳されました。それを思い出したのは北京の空を見た時です。一日も晴天がなく、空は大気汚染で曇っていました。そしてトイレでは水がでず、これは北京オリンピックにとって大きな問題だろうと思います。これは意地悪で言っているのではなく、実際に過去の東京で感じたことをもとに言っているのです。

 1968年に大学を卒業し、アサヒ硝子に入社し、公害問題に取り組みました。そのころ環境問題に興味を持っているのは、私ぐらいしかいませんでした。その点から、オリンピックによって社会が転換するという説を思い出したのです。東京オリンピックでの日本の劇的な変化は北京においても見られるでしょう。日本はまず新幹線を作りました。そして高速道路、高層ビルをつくり、風景が変わりました。これは喜びであると同時に、問題でもあります。東京オリンピックによって、日本はアジアからヨーロッパの一員へ、農業社会から、工業社会へ転換しました。そういった社会の変換が起こりました。それに伴い、人間の精神も変わりました。かつて日本人にとっての精神は努力でした。

 ところが、オリンピック以降、勝負に勝てという発言が多くなり、「一生懸命」「努力」から、「人それぞれ」「個人個人がそれぞれ楽しめればよい」というように日本人の精神が変わりました。私が東京に来た時、オリンピックの四年後ですが、川の水は濁り、大気汚染で光化学スモッグが発生していました。北京でも現在その傾向が見られます。私は最近ウルムチに行きましたが、雪は灰色でした。自分たちの発展の為に頑張り、活気に溢れてはいますが、実際にはそのような事態が起きているのです。私たちはこの状況を改めて行かなければなりません。東京の濁った川は5年後には魚が住めるようになりました。

 ですから、今回私がこのようなことを述べるのは、過去の経験からであり、中国の方々もこの点に留意していただきたいと思います。
 これは中国を非難しているわけではなく、公害問題を解決することで、国民の安全、中国のアピールが出来るようになると思うのです。

ありがとうございました。
更新日:2007年08月29日
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2008年 日本の未来に何が問われるのか」 / 発言者: 松本健一氏(全5話)
http://www.genron-npo.net/future/genre/cat142/post-23.html
第1話 アジア独自の価値観に基づく共生の理念とは

 冷戦構造解体後のグローバル化した世界では、2つに分かれていた世界が1つになってしまいました。共産主義が消滅していき、みんな自由主義的・資本主義的になる。中国を見ても自由主義貿易、自由競争、市場原理の世界であるわけで、これはどう見ても共産党支配の国だとは誰も思わない。中国の街の中の大きな書店では、かつては「マルクス・レーニン全集」が並べてあり、その後は毛沢東全集が並べてありました。改革開放路線になったときは「ケ小平全集」が並べてあった。今は何が並べてあるのかというと、一番目立つところに置いてある本はアダム・スミスの「国富論」です。中国のトップ連中も、今私が読んでいるのは「国富論」だと発言している。自由競争と見えざる神の手の調整。それは需要と供給の関係という形で市場価値が決まり、国富がつくられていく。もう1つの本は、「経済成長の過程」です。これは1960年代の我々のテキストだったW・ロストウの「経済成長の諸段階」という本の、ほとんどそのままのタイトルの本です。

 つまり、「国富論」で自由主義経済に学べといい、その結果として、中国は発展途上国から日本の1960年代の高度成長期のようにテイクオフ(離陸)をする。つまり、高度成長の結果として豊かな社会が生まれ、ヨーロッパ、アメリカ型の時代になる。これがロストウの「経済成長の諸段階」という本の主張ですが、この2つが今、中国のテキストなのです。

 安倍さん(晋三前首相)は「価値観外交」と言い、麻生さん(太郎前外相)もそれに従い、安倍さんはインドに行き、麻生さんはインドネシアやシンガポールやカザフスタンにまで行った。「成長と繁栄の弧」と言い、それは自由と民主主義と人権と法の支配を価値とすると言ったわけです。これはどれも、日本独自の価値観ではありません。一言で言えば、アメリカの「民主」です。世界を民主化すれば、必ず豊かな社会が生まれると。アメリカが言っているのは、イラクを民主化すれば必ず第二次大戦後の日本のように経済発展をして、豊かな社会、経済大国が中東にも生まれると。これはアメリカの「民主」化戦略です。しかし、それで果たして済むのか。

 アジアでは、日本の戦後60年間の経験、また東アジア諸国のNIEs、つまり、台湾、韓国、香港、シンガポール、そしてこれを追いかけるようにマレーシア、タイ、インドネシア、そしてまたそれを追いかけるようにベトナム、中国、インドというように経済発展をしてきていますが、これがアメリカの「民主」化戦略と逆なのです。特に最初の日本、NIEsの国々というのは、基本的に民主化から始めたわけではありません。むしろ経済発展からなのです。韓国の朴正煕の開発独裁、あるいは台湾の蒋経国さんから李登輝さんに至る流れも開発独裁です。マレーシアのマハティールさんも、シンガポールのリークアンユーさんもみんなそうです。欧米から言わせると、これらは権威主義体制で、一種のカリスマ的な権力によって最初は軍隊から始まって、独裁権力がテクノクラートを集め、経済発展を図る。戒厳令も1986年までは台湾も韓国もやっていたのです。その後、開発独裁の主たちは、国民をまとめていくためには軍事力で押しつけて戒厳令を敷いていくという状態では国は発展しないと考えるようになるのです。その結果、テクノクラートを使って経済改革をして経済システムも保護貿易から自由貿易に変えていく。私の言葉で言うと、ウエルスゲーム、つまり富のゲームです。しっかりとした産業を持って、貿易を盛んにすれば、その国は発展できるという、戦後日本の戦略に学んで、この国々は経済発展をしていった。

 これからの中国が同じテーマに直面することになります。国民所得が1人当たり年に1万ドル、120万円、月にならすと10万円です。これだけの収入を得るようになって、ある意味では、国民に豊かな状態が生まれてくると必ず、私たちは経済的な自由だけではなく、政治的な自由、政治参加の自由、あるいは宗教の自由や思想の自由を要求するようになる。つまり、必ず民主化が起こります。これが戦後60年間の日本の発展であり、NIEsの国々が1970年代からそれを追いかけて発展した経験の理論化です。

 これはアメリカがやった「民主化」戦略とは、方向が逆です。アメリカは民主化をすれば経済発展できると言ってイラク侵攻まで行なったわけですが、そうではなく、経済発展をうまくさせると、その結果、民主化する。韓国でも大統領を国民の直接投票で選出するようになる。台湾もそうなっている。言うならば、民主化の到来の仕方も、ヨーロッパ、アメリカがやっていた方式と東アジアのやっていた方式というのは逆になるだろうと言えます。

 しかし、「民主」という価値観は西洋近代文明がつくり上げたものです。これを全世界に広めていけば世界に平和が訪れて皆が繁栄すると考えるのか。そうではないアジア的な価値観というものがあるのではないか。民主は確かに近代文明に必要な理念でしたが、世界各国は西洋近代を後から追いかけていればいいだけなのか、その価値観をそのまま後生大事にみんなで実現しようということがこれから21世紀の文明にとっていいことなのか。そうではなく、近代の始まりの前は、日本も中国も韓国でも、皆、お互いに貿易をし、戦争もせずに、国内の社会秩序、アジアの国際秩序をつくっていたわけです。その時代の韓国も日本も中国も、そしてベトナムやタイも、基本的には農耕文明なのです。農耕文明の上に武家政権、ヤンバン階級、あるいは中国の清朝の官僚制度があった。

 農耕社会では、同じ風土に住んで同じ土地と水を共同で使い、田んぼや農地や河川の農耕を行う。農業経営は共同体の経営なのです。西欧では私的所有ということで土地を全部分けていく。あとは自由競争だけで、どちらが勝つかというようにして競争社会をつくっていく。しかし、アジアの場合にはそこで競争社会をつくらないのです。同じ河川を使って、川の上で使った水を川の下に流していく。川の上の村と川の下の村は、ある部分は競争しますが、ある部分では共生しているのです。「共生」というのは、元はシンバイオシス(Symbiocis)という生物学的な用語ですが、その理念というのは、実はアジアの農耕社会にはみんなある。

 そこでは、エベレストの北と南は片方は中国、片方はインド、ネパールというような、所有権や国家所有で分けていくような領土の分け方をしなかったわけです。そこは生物と同じように、人間も自由に行ったり来たりできる。川の水も、上の村が全部使い切ってしまうということをしない。むしろそんなことをすれば、上の村がため込んでいる河川の土手を決壊させてしまうという水争いが起きて、では、これはお互いに使おうという形になっていく。共生です。

 近代文明の国民国家の論理は、今、そこで非常に大きな問題が生まれている。例えばメコン川はチベットのほうから来ているのですが、中国の中を通ってラオス、ベトナム、カンボジア、場合によってタイのほうのメコンデルタまでを潤すという大河です。ところが、アジアの国々が国民国家づくりをするということを、戦後始めた。一番早い国はまだ独立後、あるいは近代化をはじめてから、30年しかたっていない。しかし、今みんな経済発展するようになってきた。そこでは、西洋近代文明を象徴する国民国家づくりが必要になる。領土を画定、つまり私有した上で国家主権を守り、国益を守り、国民生活を向上させ、国民の権利を我々国家が守ってあげる。だから、あなた方国民はこの国家を支えなさいという論理になっている。そうすると、領土は自分たち国民国家の占有となるわけで、その結果、メコン川の上流で中国が経済発展することによって、農業のみならず工業の水も必要となり、ダムや水力発電所をつくる。中国だけで上流に5つもダムをつくってしまいました。その結果、以前はメコン川に流れていた水量が今は3分の1になった。そこで、ラオス、ベトナム、カンボジア、タイなどの漁業や農業がメコン川によって成り立っていたのが、全部だめになってしまうという状況が出てきています。中国のみが国際水利条約に入っていないからできるのです。

 それは言ってみれば、国民国家がみんな自分の国を強くして、自分の国民を富ませようというナショナリズムの時代ですから、こんな勝手をして当然ということになる。そうすると、今まで我々アジア文明が潜在的に持っていていた「共生」という理念はどこに消えたのか。「民主」の価値観は確かに西欧が提示し、それによってアジアの近代も元気が出たが、同時に、アジアの価値観が「共生」であるということを表に提示することによって、これからの21世紀の文明の形を変えていくことができるだろう。そこまで考えた形での見通しを立てていかないと、今はまだみんな国民国家づくりの最中ですから、これからますます資源外交や領土占有合戦が熾烈になっていくでしょう。今、ベトナムで起きている南沙諸島や西沙諸島という問題でも、中国がそこに軍事施設を築き始め領土化をしたのに対し、反中国デモがベトナムで起きて、それは我々のものであるというかたちでベトナム国民が動き出しています。

⇒第2話を読む
http://www.genron-npo.net/future/genre/cat142/post-23-2.html
第2話 「共生」の理念に基づく問題解決の機関の設立を

 政治家というのは独特な人種だと思います。例えば、私はヨーロッパ、アメリカの近代西洋の「石の文明」の理念が、一言で言うならば「民主」という言葉であるとするならば、日本は「泥の文明」と呼んでいます。米づくりや農耕を中心として共同体形成をしてきたアジアの社会の中には「共生」という理念が潜んでいると言っているわけです。そう私が主張したのは10年ほど前の『開国・維新』という本あたりからですが、政治家はそれを使えるなと思ったときには、それを使う。福田康夫さん(首相)は去年からこの「共生」という言葉を使ったのですが、小沢一郎さん(民主党代表)は3年前ぐらいから使っています。小沢さんが「第三の開国」と言ったのも、私が「第三の開国」と14年ぐらい前に言って、そのすぐ後なのです。これは使えるなと考えると政治家は使う。安倍晋三さん(前首相)も「美しい国へ」の中で私が名づけた「ナショナル・アイデンティティー」という言葉を使いました。 安倍さんが「ナショナル・アイデンティティー」と言っているのも、ある意味では、米ソ二つに分かれていた時代に、アメリカのほうにくっついていればいいという戦後レジームから、グローバル化の世界の中で脱却して、日本は独自の路線でいこうということが基本テーゼだったわけです。

 今の日本の政治家が使う「共生」はそういう私の文脈にのっとったものであり、体系立っていませんし、肉づけもしていない。例えば大平正芳さん(元首相)や中曽根康弘さん(元首相)は、環太平洋国家づくり、あるいは太平洋経済圏と言った場合に、学者やブレーンを集めて、打ち上げるのは自分だが、具体的にそれをどういう形で太平洋経済圏や環太平洋経済圏をつくっていくのかについては、高坂正堯さん(元京大教授)や渡辺利夫さん(現拓殖大学学長)といった人たちがまとめました。ところが今は、ブレーンを使いこなせないのか、使いこなすだけの時間もないのか、例えば亡くなった小渕恵三さん(元首相)もブレーンはほとんどいませんでした。安倍さんもそうなのです。悪く言えば、お友達と言われていた人たちがまわりにいただけでした。

 それでも安倍さんは「ナショナル・アイデンティティー」という形で1つの流れをあらわしていましたが、今の福田さんや小沢さんの言う「共生」では、それをベースにした国家像や価値の体系がまだつくり切れていない。ですから、小沢さんが3年ぐらい前からそれを言っていても、突然、選挙の前になると福田さんが、それを取ってしまい、「自立と共生」と言い出す。しかし、それは自分が言ったことだと小沢さんもなかなか言えないわけです。小沢さん自身がどこかでというか、その私の論理を使った論文を読んで、これはいい言葉だなと思っているからです。

 ハンチントンの「文明の衝突」という状況、つまり、わざわざ自分の外に敵をつくって、それを叩けば「ナショナル・アイデンティティー」がつくられるという戦略路線に対して、我々アジアが経験してきた文明経験、あるいは村での経験、村落共同体での知恵から国家づくりまで含めて、そこには必ず「共生」という理念が潜んでいる。文明が異なっていれば衝突させていくというのが、西欧近代文明であり、「民主」のアメリカである。その「民主」の価値観にイスラムなどは認めないと言って、攻撃してしまった。それは"ハンチントンの罠"だった。そういう「民主」が近代の世界史を元気付けてきたことはたしかですが、我々が考えるアジアの経験、あるいは古くからあるようなアジア的な文明から汲み出せる理念というものが「共生」なのです。

 宗教が違ったからといって必ずしも激突するものではない。南アジアから東アジアにかけては宗教の共存はいろいろなところであるのです。例えば、パレスチナにある嘆きの壁というものはキリスト教の聖地であると同時にイスラム教の聖地であって、ユダヤ教の聖地であると言っていますが、全部そこに網を張って、お互いに交流できないようにしており、それを米英は共存と言っているのですが、それは共存でも何でもありません。三つを分け合って、何とか均衡を保っているだけの話です。ところが、インドの中では、イスラム教とヒンズー教が共存し、同じ境内にモスクと寺院が並んでいる。アジアにはそういう事例がたくさんあるわけです。

 インドネシアのイスラム学者は、9.11テロのあと、イスラム教徒がすべて他宗教を敵視するとは思ってほしくない。インドネシアはイスラム教が国教であるが、ボロブドールという古代仏教遺跡を保存し、世界遺産に登録して、現在でもなお補修を続けているのは我々イスラム教徒だと言っていました。アジアの地域を見ていると、そのように、宗教が違うからといって、それを排除していく、あるいは異端だといって叩きのめしていくという構造は非常に少ないのです。これはアジアが「泥の文明」であり、本来的に多神教の世界であるという理由があるのです。新しい神様がもう1人増えても、敵視しないという対応になる。台湾に行くと、台北の龍山寺に入っていけば、まずお釈迦様が祀られ、隣に孔子が祀られ、その横側に老子や関羽までも祀られている。しかも、台湾はもともと福建省あたりから来ている人が多いのですが、そこで成立した媽祖様という海洋民の女性の神様も一緒に祀られている。神仏習合どころか、宗教の異なる4つ5つの神様を合わせて祀っています。

 日本の平戸の、川内に金比羅神社があります。金比羅様というのはもともとガンジス川のクンビーラというワニの神様で、これが日本の神道の神様になったのです。そこでは、金比羅様の隣に仏教の観音様が祀られ、その隣にはマソ様が、その隣には鄭成功様が祀られている。鄭成功はその家で生まれているのです。その裏にいくと、フランシスコザビエル教会が立っている。そこで、神道とキリスト教と仏教あるいは媽祖教とが宗教対立するか、あるいは宗教戦争をするか、紛争が起きるかというと、起きないわけです。日本に、最初にキリスト教が入ってきたときでも、観音様が首にクロスをさげていたりするのです。隠れキリシタンの観音様はみんな赤ん坊を抱えていて、その赤ん坊はキリストですから、首には十字架が下がっている。この像は日本だけではなく、台湾にも中国にもインドにもある。そこには宗教が共存しています。

 なぜそういうことが可能なのか。それは、自然に立脚した「共生」という理念がある社会、つまり、アジアの「泥の風土」には、いろいろなものが生まれてくるが、それがみんな共生していく。そういう農耕文明的な、いや「泥の文明」の多神教的な世界が何百年、何千年にわたって続いている。そうであるとするならば、その「泥の文明」の「共生」という理念も廃れていないわけです。これはやはりアジアの知恵であると思います。これから化石燃料、エネルギー資源がほとんどなくなっていくというときに、人口ばかりは増えていく。こういう現代文明の状況をそのまま放っておけば、20世紀以上の苛烈な争いの時代になってくる。資源外交や領土紛争は、もう各地で起き始めています。

 言論NPOは以前、日本がアジアの知的なプラットフォームになり、そこで何か新しい文明的価値を生み出し、アジアのさまざまな課題に答えを出せる場になるということを提言したということです。そして日本はそういうノウハウを持っている国です。公害の問題でも40年前に体験していますし、近代化はそのひずみまで含めて一番経験がある。ナショナリズムで失敗したのも日本ですから、そういう失敗した経験をアジアで生かさない術はないわけです。政府や経済界は東アジア共同体をつくろうと言いますが、考えている内容はほとんど共同体ではありません。せいぜい自由貿易協定を結んで自由貿易をさかんにし、経済を活性化させようというレベルの話でしょう。私なら具体的に、メコン川の水利を共同で討論して解決していく方法を探すことを提案する。というのは、中国だけは国際水源条約に入っていません。ですから、メコン川の水をお互いに話し合ってうまく共有し、共同して利用していこうとしても、中国はいまナショナリズム国家をつくるという方向にまい進しているところで、五つのダムを作り水を独り占めしています。こうしたメコン川の水利の問題も含めて、現実問題を解決するような、そういうプラットフォームを構築すべきです。

 アジアではシンガポールのところの海賊問題がまだ未解決であり、他方、3年前の津波の経験などもほとんど活かされていない。インドでは500年に1遍ぐらいで、1300年ぐらいに起きた津波の状況がヒンズー教寺院に書き残されていますが、そんなことは神話の世界だと思っていますから、ノウハウが何もない。津波からどうしたら逃げられるのか、次にどうしたらそれを予知できるのか、そして、その被害が起きたらどのように国際支援をやるのかというような知恵、知識、情報を共有していく、そういう国際的な機関もアジアにはありません。

 今までの国際的なオーガニゼーションは全て、国連にせよ赤十字にせよ世界貿易機関せよ世界保健機関せよ、どれも西洋がつくってきわけです。それは確かに、世界が一つになっていく時代には必要なものでした。しかし、アジアにはアジア独自の歴史交流があり、文化の共有があり、そして同じ風土や環境を使っている。そこで実際に起こっている問題にどう対応していくか。特に21世紀はエネルギー資源の問題や、食料の問題、人口増や人口の移動の問題や、環境の問題がアジアで共通の課題になります。こういう21世紀的なテーマを解決するようなオーガニゼーションが、アジアにはない。

 ですから、私は、先日の北京での言論NPO主催の第三回の北京−東京フォーラムで、そういうアジアの共通の知恵を出して、アジア的な解決の方法をとっていき、「共生」という理念を実現していくようなオーガニゼーションが必要だ、この言論NPOでやっている会議が、それをつくり上げていく1つのステップになっていくと考えればいいのではないか、と申し上げたのですが、そこでかなりの同意を示す拍手が起きていました。

 日本と中国の関係はありますし、日本と韓国の関係もありますし、日中韓がそろって例えばAPECや東南アジアサミットに加わっていく、という仕組みはあります。今は、そういう機会に3国で話し合いましょうと言っているレベルです。しかし、東アジアで共有している問題は多く、そこには共通する海があり、環境があり、資源があり、食料問題から人口問題まで同じような困難が待ち受けている。そこで同じように21世紀の歴史を共有していくわけですから、そこで問題を共通に解決していくというプラットフォームの構築に向けて、言論NPOがアイデアを出していくべきなのです。

⇒第3話を読む
http://www.genron-npo.net/future/genre/cat142/post-23-3.html
第3話 変革の時代における逆戻り現象なのか

 福田政権をどう評価するかにも関係してきますが、福田さんはかなり辛辣なことを言っても余り人に憎まれないという人徳があって、まあうまくこなしている。みんながそれを外から傍観しているという状況です。小泉純一郎さん(元首相)のように、「敵か味方か」という問い掛けのもとに、観客を見方に引きずりこむポピュリズムの手法はとらない。ただ、私の基本的な考え方は、冷戦構造が終わってから、世界史的な大きな変革が起こっている。そして、それに対応する形で、日本も、私が主張する「第三の開国」という言葉のように、外に国を開きつつ、国内の官僚主導体制を変革していかなければならない。実際に、それを大きく構造改革という形で打ち出したのは、小泉さんの「官から民へ」というスローガンだったり、安倍さんの「戦後レジームからの脱却」ということでした。そこでは明確に変革という旗印を掲げていったわけです。

 そういう変革の形をとりながらも、2人のスタンスは若干違っていて、小泉さんの場合には「自民党をぶっ壊せ」と言って国民の支持を得る。一種のポピュリズムで、国民の喝采は受けたのですが、そのために自民党の中の派閥が持っていた政策マシンを敵にしてしまって、結局、自民党の中から協力をほとんど得られなかった。そこで、小泉・竹中路線の結果は、「官から民へ」というスローガンを掲げながらも、実際に道路公団改革にしても、郵政民営化にしても、あるいは新自由主義・市場経済原理主義という路線にしても、基本的に全部官僚の手伝いを得なければ法律一つつくれない、あるいは道路公団も国土交通省の描いた方向になり、むしろ官僚主導が強まったという状況が出てきていると思います。

 小泉さんには対アジア外交をほとんど壊してしまったという側面もあって、これは私の言う"ハンチントンの罠"に落ちたということです。外に敵をつくれば国の内部はまとめられるというハンチントン(『文明の衝突』)の戦略を、当時は小泉さんだけではなく、中国の胡錦濤主席も韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)さんも皆そういう政策をとっていました。お互いにぎすぎすした関係で、とくに日本はアメリカとの同盟のみを強調したために、アジアに友達がいないという印象さえ受けるような状態だったわけです。

安倍さんは、言論NPOの一昨年の北京−東京フォーラムの場も利用しながら、見事にアジア外交を復活させていった。また、小泉さんのときには外交がアメリカ一辺倒だった側面があったのに対し、日中関係や日韓関係を首脳外交として復活させると同時に、インドに出かけていってインド外交の道を開こうとした。そういう意味では、外交の流れを大きくチェンジするという形で安倍政権は始まりました。しかし、始まったところで辞めてしまったということになるのです。スローガンだけは「戦後レジームからの脱却」と掲げながら、健康問題がネックになったとはいえ、そのテーマを放り出してしまった。社会保険庁の年金問題でも、「最後の1円まで」と言い出しながら、結果とすればその約束を途中で放り投げて終わってしまったということだと思います。

 では、福田さんが政権をとって、どのような変化が起きてくるのか。小泉、安倍政権の2人の首相は、どちらかというと変革型の首相だったと思います。ところが、福田さんは、首相に選ばれるときも、ほとんどの派閥が賛成するという形をとったわけですから、党内基盤に支えられ、しかも、党内の派閥の利害を調整するような役割、つまり、調整型の首相として出てきた。「第三の開国」期の非常事態であるから、私が責任を持って変革し、責任を取るという形でのリーダーシップではない。これはどちらかというと、逆戻りです。

 変革の時代に、あるいは「第三の開国」の時代に、むしろ官僚主導の流れを強めている。「第三の開国」というのは官僚独裁を打ち壊していくことが要請されます。第一の開国が武士独裁の幕末維新の時代でしたから、武士独裁の解体です。これに対して戦前の日本の状況は軍人独裁と言えます。軍隊の民主化を行うことも含めて、アメリカが要求したような形での戦後民主主義体制をつくる、これが第二の開国だったわけです。冷戦構造解体後の「第三の開国」というのは、官僚ががんじがらめに国を支配していることへの変革です。防衛省役人のやりほうだい、社会保険庁のでたらめ、そうして郵便貯金の運用で国民宿舎や保養施設など、全く利潤が上がるはずもない施設ばかりをつくる。天下りをはじめとして、自分たち官僚がうまい汁を吸うための構造をつくっていたわけです。

 今回の防衛省次官の守屋さんの問題にしても、それだけ官僚の懐に必ずカネが入ってくるという構造になっていたわけで、官僚がやりたいままにやれる。それも国家を支えるためにとか、軍隊の機密保持のためにと言いながら、実は自分たちの利権を保持する。そういう意味で言うと、まさに官僚独裁が起こっているということです。その構造を小泉政権の時代はむしろ保護してしまったという失敗になると思います。そして、福田政権になってからは、再び道路をつくるという決定をするし、天下りもほとんど放任状態になってきた。まさに派閥みんなの利権を守り、調整してやるという形になって、官僚機構をそのまま温存する、あるいはまた官僚独裁をむしろ助長するという形になっていくという懸念さえ、私は感じています。

⇒第4話を読む
http://www.genron-npo.net/future/genre/cat142/post-23-4.html
第4話 権力奪取のための二重路線なのか

 2008年の世界は北京オリンピックもあり、そこまで世界は経済や外交の分野で、中国を先導者として走っていくという形をとるでしょう。7月頃の段階で、その後の状況が見え初めてくるだろうと思います。

 世界で今年、焦点が当たる動きは、まずイラク撤退の仕方の問題が1つです。アメリカでは大統領選もあり、今、どうみても大統領候補者たちは、イラク戦争遂行の方向を誰も言っていない。アメリカは自由と民主主義の国であり、ブッシュ政権はその敵を討つという"ハンチントンの罠"に落ちた戦略で走ってきたのが、それはもう誰も信じていていないという状況になっています。今年は、ユニラテラリズム(一極行動主義)をとれなくなったアメリカとしては、中国の力が相対的にどんどん大きくなってくる中で、中国との関係性をよく持っていきたいという行動をとるでしょう。特に民主党がそうです。そして、中国のほうも、共産党一党独裁の路線はとり続けますが、それでは国民はもう満足しない状態になっています。共産党幹部だけがいい生活をする、利権を握っている、あるいは地位を手に入れられる、そんなことではだめだ、建前としては国民国家の方向を目ざすという方針を示さなければならない、と共産党の幹部たちもわかっている。国家主席を民主投票で選ぶということは当面あり得ないとしても、地方の市長ぐらいは民主投票にしていかないといけないと。つまり、国民を守るための国民国家というものをつくらなければ、近代の国家としての役割を果たせない、ということです。

 たとえ共産党が国家機構の上にいようと、あるいはイスラム聖職者が上にいるようなイランのような国であっても、国民を守るのは我が国家、いや首相や大統領の役割であるというふうに言わない限り、必ずその政権基盤がひっくり返る。逆に言えば、世界の人々はいま、その意識において自分たちの権利や自由はどうなるのかという方向に変わってきています。この国民の要望や欲求にこたえられないような政権は全部ひっくり返っていきます。それゆえ、中国共産党のほうでも、国民にある程度の政治的な権利や自由を与える。経済的な富はすでに与えられる所には与えられており、それゆえに都市と農村、沿岸部と内陸、そして富裕層と貧民の大きな格差が生まれています。この格差を是正しなければならない。共産党政権は労働者や農民のことを考えていると言うけれど、現実にはどんどん格差が開いていき、我々国民のところには大した利益は来ないのではないかと疑い始めているところです。

 ですから、胡錦濤報告も「和諧社会」というスローガンを掲げる。最終的には国民のほうにも利益が行き、政治的な権利も分け与え、国家が人権も守っていくという建前をとらざるを得ない。共産党一党独裁政権と国民国家づくりとは、全く異なる路線ですが、建前とすれば、そのような矛盾をなんとか調和させていきたい。今は北京オリンピックに向けて走っているところですから、まだ北京・上海周辺におカネが回るわけです。労働者も、地下鉄工事をやっていれば、ちょっときついし、大気汚染がひどくなっているとしても、給料が2倍3倍になっているからいいではないかと思っている。しかし、それは多分、北京オリンピックの施設が全部つくり終わった段階で終わりです。

 一方、日本の将来ですが、人口減少社会を迎えて日本は、あるところで大きな路線変更をしなければなりません。日本の国をどのような体制にしていくか。成長ではなく持続の社会へ、そして女性が仕事を持っていても子どもを生んで生活しやすいような国に変えていくというような、基本的な国の体制の問題です。若い世代が希望が持てると皆が思える国にしていかなければならない。

 今の20代、10代の後半の若い人々が、今、日本の社会に希望を持っていません。今の日本がまあいいと思うと答えるのは、みんな60、70代の人たちです。高度成長を支えた世代は、自分たちがよりいい生活できる豊かな社会を目指そうとし、日本は実際高度成長してきた。この人々は、年金の問題でも不安は出てきていますが、その人々は年金はもらえるのです。しかし、少子高齢化になったときの今の10代の後半の人、20代の人々は年金は払っても30年後、40年後にはもらえない可能性のほうが高いわけです。未来は希望の社会ではなく、お父さん、お母さんの過去の時代はよかったと思っている。

 中国も2015年には少子高齢化になっています。これは、日本の十倍規模の人口ですから、かなり深刻な問題になります。人口が増え続け経済の成長が続くという状況は絶対になくなる。それもごく近いうちにそうなると考えたほうがいい。私は大学の入学試験の留学生面接をしていますが、これまで中国はまだ経済発展をしている途上国であるという意識で、日本に留学して来ても学費が払えるかどうかわからないので、どこがあなたたちの学費を出してくれるのか、生活費はどうするのか、それを確かめるというのが面接官の第1の役割でした。この場合、従来は日本にいる親戚の人や日本の中の支援者が奨学資金で出してくれますと言っていた。それが、2003年度の試験の頃からですが、お父さんとお母さんが出してくれますと言うのです。

 よく考えてみると、1人っ子政策で生まれた学生が大学を卒業し、20歳になった。1人っ子政策が始まるのは1980年からでした。それが2000 年に20歳になる。2003年のときからその人たちが日本に留学の受験に来たわけです。シックスポケットという言葉があります。1人の子どもに対して、子どもが20歳だとすると、お父さん、お母さんは40代初め、おじいさん、おばあさんは60代初めで、そのおじいさん、おばあさんは4人いるわけです。その6人のポケットで1人の子どもを皇帝のごとく育て、留学までさせてやる。最終的に、この子どもたちが戻ってきて働くようになったら、我々老人の年金の体制も整え、生活も支えてくれると考えていますから、1人の子どもにみんなでお金を出すわけです。

 日本人ですと、留学しても、日本人が一番甘えん坊ですし、外国では対抗して就職できないこともあって、外国の大学や大学院を出ても、大体9割は日本に戻ってきてしまう。ところが、中国の場合には、今は留学生の4割が戻ってこない。有能であり、欧米、あるいは日本などでちゃんと自分なりに仕事をつくり、あるいはベンチャー企業を立ち上げたりして、国家や中国政府の世話にならないで生活していける人々が、そういう能力、技術を持った若者が中国に戻ってこなくなる。これが将来的に中国の活力を奪う。そういう1人っ子政策のツケが出てくるということと同時に、中国の人口自体は2015年あたりで増えなくなるにしても、有能、高技術者の人が中国に戻ってこないとなると、かなり危険な状況が出てくるだろうという気がします。

 日本では早期の解散・総選挙という話も年末までは出ていましたが、それをしたところで自民党は到底、選挙では勝てない。民主党との連立もうまくいかなかったということもあって、早くて3月以降ということになるでしょう。民主党のほうとすれば、本来は今だからこそ、こういう政権をつくる、その政権がつくる国家目標、国家デザインというものはこういうものであると描き、それを独自の政策として出していかなければならないのです。しかし、当面は相手の失点をたたくだけで民主党のほうに票が入ってくるという方針をとるのではないか、と思われます。つまり、年金問題や天下りなど、自民党の長期政権のウミやツケ、その失点をたたくだけでも、政権をとれる可能性がある。しかし、本来は政権政党を目指す、あるいはそうなるという目が見えてきた現在は、国家のデザインや国民の生活をどうしていくのか、国際社会の中における日本の立場やプレゼンスはどういうふうにしていくのか、といった政権政党の姿を出していかなければいけない。

 いずれにしても、国民から見れば、日本の将来の姿を描くことを提案してくれない既成政党に対するもどかしさがあって当然でしょう。だからこそ、言論NPOがそれを先んじてすべきなのだと私は思っています。今は、大学の先生なども選挙予想屋あるいはテレビのコメンター風になってしまっており、年金問題ではこういう失態があるとか、役人はああいう答え方をしてはいけないなどと言っているだけでお茶をにごしてしまっている。言論NPOは、実はそういう国家デザインを描くということが政治家に必要とされていると言うと同時に、自らこういう国家デザインを提示しますと言っていくべきと思います。

 政治家というのは、やはり大変な嗅覚があるわけで、これは政策として使える、役に立つ、あるいは、これはたしかに国家の長いスパンで考えなければならないことだ、とかぎ分ける能力は非常にあるのです。そこに、言論NPOは賭けていくべきでしょう。

⇒第5話を読む
http://www.genron-npo.net/future/genre/cat142/post-23-5.html
第5話 将来の国家の姿の提示と言論NPOへの期待

 2008年の世界は北京オリンピックもあり、そこまで世界は経済や外交の分野で、中国を先導者として走っていくという形をとるでしょう。7月頃の段階で、その後の状況が見え初めてくるだろうと思います。

 世界で今年、焦点が当たる動きは、まずイラク撤退の仕方の問題が1つです。アメリカでは大統領選もあり、今、どうみても大統領候補者たちは、イラク戦争遂行の方向を誰も言っていない。アメリカは自由と民主主義の国であり、ブッシュ政権はその敵を討つという"ハンチントンの罠"に落ちた戦略で走ってきたのが、それはもう誰も信じていていないという状況になっています。今年は、ユニラテラリズム(一極行動主義)をとれなくなったアメリカとしては、中国の力が相対的にどんどん大きくなってくる中で、中国との関係性をよく持っていきたいという行動をとるでしょう。特に民主党がそうです。そして、中国のほうも、共産党一党独裁の路線はとり続けますが、それでは国民はもう満足しない状態になっています。共産党幹部だけがいい生活をする、利権を握っている、あるいは地位を手に入れられる、そんなことではだめだ、建前としては国民国家の方向を目ざすという方針を示さなければならない、と共産党の幹部たちもわかっている。国家主席を民主投票で選ぶということは当面あり得ないとしても、地方の市長ぐらいは民主投票にしていかないといけないと。つまり、国民を守るための国民国家というものをつくらなければ、近代の国家としての役割を果たせない、ということです。

 たとえ共産党が国家機構の上にいようと、あるいはイスラム聖職者が上にいるようなイランのような国であっても、国民を守るのは我が国家、いや首相や大統領の役割であるというふうに言わない限り、必ずその政権基盤がひっくり返る。逆に言えば、世界の人々はいま、その意識において自分たちの権利や自由はどうなるのかという方向に変わってきています。この国民の要望や欲求にこたえられないような政権は全部ひっくり返っていきます。それゆえ、中国共産党のほうでも、国民にある程度の政治的な権利や自由を与える。経済的な富はすでに与えられる所には与えられており、それゆえに都市と農村、沿岸部と内陸、そして富裕層と貧民の大きな格差が生まれています。この格差を是正しなければならない。共産党政権は労働者や農民のことを考えていると言うけれど、現実にはどんどん格差が開いていき、我々国民のところには大した利益は来ないのではないかと疑い始めているところです。

 ですから、胡錦濤報告も「和諧社会」というスローガンを掲げる。最終的には国民のほうにも利益が行き、政治的な権利も分け与え、国家が人権も守っていくという建前をとらざるを得ない。共産党一党独裁政権と国民国家づくりとは、全く異なる路線ですが、建前とすれば、そのような矛盾をなんとか調和させていきたい。今は北京オリンピックに向けて走っているところですから、まだ北京・上海周辺におカネが回るわけです。労働者も、地下鉄工事をやっていれば、ちょっときついし、大気汚染がひどくなっているとしても、給料が2倍3倍になっているからいいではないかと思っている。しかし、それは多分、北京オリンピックの施設が全部つくり終わった段階で終わりです。

 一方、日本の将来ですが、人口減少社会を迎えて日本は、あるところで大きな路線変更をしなければなりません。日本の国をどのような体制にしていくか。成長ではなく持続の社会へ、そして女性が仕事を持っていても子どもを生んで生活しやすいような国に変えていくというような、基本的な国の体制の問題です。若い世代が希望が持てると皆が思える国にしていかなければならない。

 今の20代、10代の後半の若い人々が、今、日本の社会に希望を持っていません。今の日本がまあいいと思うと答えるのは、みんな60、70代の人たちです。高度成長を支えた世代は、自分たちがよりいい生活できる豊かな社会を目指そうとし、日本は実際高度成長してきた。この人々は、年金の問題でも不安は出てきていますが、その人々は年金はもらえるのです。しかし、少子高齢化になったときの今の10代の後半の人、20代の人々は年金は払っても30年後、40年後にはもらえない可能性のほうが高いわけです。未来は希望の社会ではなく、お父さん、お母さんの過去の時代はよかったと思っている。

 中国も2015年には少子高齢化になっています。これは、日本の十倍規模の人口ですから、かなり深刻な問題になります。人口が増え続け経済の成長が続くという状況は絶対になくなる。それもごく近いうちにそうなると考えたほうがいい。私は大学の入学試験の留学生面接をしていますが、これまで中国はまだ経済発展をしている途上国であるという意識で、日本に留学して来ても学費が払えるかどうかわからないので、どこがあなたたちの学費を出してくれるのか、生活費はどうするのか、それを確かめるというのが面接官の第1の役割でした。この場合、従来は日本にいる親戚の人や日本の中の支援者が奨学資金で出してくれますと言っていた。それが、2003年度の試験の頃からですが、お父さんとお母さんが出してくれますと言うのです。

 よく考えてみると、1人っ子政策で生まれた学生が大学を卒業し、20歳になった。1人っ子政策が始まるのは1980年からでした。それが2000 年に20歳になる。2003年のときからその人たちが日本に留学の受験に来たわけです。シックスポケットという言葉があります。1人の子どもに対して、子どもが20歳だとすると、お父さん、お母さんは40代初め、おじいさん、おばあさんは60代初めで、そのおじいさん、おばあさんは4人いるわけです。その6人のポケットで1人の子どもを皇帝のごとく育て、留学までさせてやる。最終的に、この子どもたちが戻ってきて働くようになったら、我々老人の年金の体制も整え、生活も支えてくれると考えていますから、1人の子どもにみんなでお金を出すわけです。

 日本人ですと、留学しても、日本人が一番甘えん坊ですし、外国では対抗して就職できないこともあって、外国の大学や大学院を出ても、大体9割は日本に戻ってきてしまう。ところが、中国の場合には、今は留学生の4割が戻ってこない。有能であり、欧米、あるいは日本などでちゃんと自分なりに仕事をつくり、あるいはベンチャー企業を立ち上げたりして、国家や中国政府の世話にならないで生活していける人々が、そういう能力、技術を持った若者が中国に戻ってこなくなる。これが将来的に中国の活力を奪う。そういう1人っ子政策のツケが出てくるということと同時に、中国の人口自体は2015年あたりで増えなくなるにしても、有能、高技術者の人が中国に戻ってこないとなると、かなり危険な状況が出てくるだろうという気がします。

 日本では早期の解散・総選挙という話も年末までは出ていましたが、それをしたところで自民党は到底、選挙では勝てない。民主党との連立もうまくいかなかったということもあって、早くて3月以降ということになるでしょう。民主党のほうとすれば、本来は今だからこそ、こういう政権をつくる、その政権がつくる国家目標、国家デザインというものはこういうものであると描き、それを独自の政策として出していかなければならないのです。しかし、当面は相手の失点をたたくだけで民主党のほうに票が入ってくるという方針をとるのではないか、と思われます。つまり、年金問題や天下りなど、自民党の長期政権のウミやツケ、その失点をたたくだけでも、政権をとれる可能性がある。しかし、本来は政権政党を目指す、あるいはそうなるという目が見えてきた現在は、国家のデザインや国民の生活をどうしていくのか、国際社会の中における日本の立場やプレゼンスはどういうふうにしていくのか、といった政権政党の姿を出していかなければいけない。

 いずれにしても、国民から見れば、日本の将来の姿を描くことを提案してくれない既成政党に対するもどかしさがあって当然でしょう。だからこそ、言論NPOがそれを先んじてすべきなのだと私は思っています。今は、大学の先生なども選挙予想屋あるいはテレビのコメンター風になってしまっており、年金問題ではこういう失態があるとか、役人はああいう答え方をしてはいけないなどと言っているだけでお茶をにごしてしまっている。言論NPOは、実はそういう国家デザインを描くということが政治家に必要とされていると言うと同時に、自らこういう国家デザインを提示しますと言っていくべきと思います。

 政治家というのは、やはり大変な嗅覚があるわけで、これは政策として使える、役に立つ、あるいは、これはたしかに国家の長いスパンで考えなければならないことだ、とかぎ分ける能力は非常にあるのです。そこに、言論NPOは賭けていくべきでしょう。
更新日:2008年01月24日
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岩井国臣の「劇場国家」!
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/tiikikuu.html
地域構造と「空」・・・その1
 女帝問題が国論を二分するような大問題になっている。確かにわが国の国体にかかわる大問題である。しかし、女帝問題を議論する前に、天皇に関する議論をし、それをもっともっと深めなければならない。近々、私も女帝についての持論を公表したいと考えているが、まだその時期ではない。今は、天皇でさえ、私の考えが人びとを説得できるほどにまとまっている状況ではないので、今急いで自分の考えを整理しているところである。もちろんおおよ自分の考えはあるのだが、人びとには説得力を持って話できないという訳だ。しかし、説明できるときがすぐそこにまで来ている。だから、女帝についての持論を公表できる日も近いという訳だ。女帝問題については、もう少し待ってほしい。
 御承知のように、憲法改正が現実の政治課題として浮上している。現行憲法はマッカーサーによる押し付け憲法であるので、できるだけ早くわが国の自主憲法を作ることが肝要である。私の考えでは、憲法改正で一番問題にすべきは、前文でもなく、第9条でもない。第1条の「天皇」に関する記述だ。天皇はなぜ国民統合の象徴なのか。そもそも天皇はなぜ存在しなければならないのか。そういう基本的な認識論をしっかりとしなければならない。わが国の国体、すなわち・・・わが国のあるべき姿(かたち)として天皇がなければならないということを、なんとしても私たち国民の共通認識にしなければならない。現在、その辺の堂々たる議論がまったくできていないではないか。私は、そういう堂々たる議論を惹起するために、今、天皇に関する私の考えをまとめているところである。すなわち、拙著にある程度の示唆をしておいたが、目下、天皇に関する論点として、
○「違いを認める文化」の象徴としての天皇
○「違いを認める文化」と「わび・さび文化」
○ 天皇と民衆
○ 天皇家はなぜ永く続いたか
○ 歴史は終わるか?
を掲げ、考えのまとめにはいっているところだ。そして、昨日、元旦に、天皇は「空の天皇」でなければならないとして、「空」ということの意味を深く掘り下げておいた。河合隼雄は、わが国の構造は「中空均衡構造」又は「中空構造」だとしているが、私のいう「空」と・・・まあ同じだと考えていただいて差しつかえはない。

 1990年代初頭から、さまざまな学問の領域において「複雑系」に関する研究の流れが起こってきているが、その最新の研究成果を踏まえて「空」の解説をしたつもりである。家族にも「空」が必要だし、地域にも「空」が必要だし、国家にも「空」が必要だ。私の考えでは、国家の「空」は天皇である。
 家族の場合は、おばあちゃんであったり、お母ちゃんであったりする場合が多い。おじいちゃんやおやじというものは、威張って入るが、実質的には「おばあちゃん」や「お母ちゃん」を中心に動いている。今ここでは「クラウンマザー」を紹介するにとどめ、まあ、「家」と仕切る人が必要だということを言うぐらいにしておこう。河合隼雄の見解は極めて重要な指摘である。河合隼雄は、その著書「家族関係を考える」(1980年9月、講談社)の中で次のように言っている。
 『 中心に存在するものは、永遠の同伴者である。家族の成員は個性的に生きるために、他の成員によって自由を束縛されることを好まない。しかし、中心を欠いた自由は崩壊につながってゆく。そこで、これからの家族は、このような不可思議な中心をいかに見い出してゆくかという大変な課題と取り組んでゆかねばならないのである。このような考えの解りにくい人は、家族はそのときに応じて、父親なり母親なり子供なりを中心として生きてゆく、つまり家族のなかに、永遠の同伴者の顕現を感じとってゆく、と考えていいかも知れない。つまり中心となる人は固定しないのである。それはあくまで仮の中心であり、本当の中心は背後に存在している。』・・・・と。
 このように、「 本当の中心は背後に存在している。」などという言い方を聞くと、大方の人は宗教的なことを思うかも知れない。この点につき河合隼雄が何を考えているかは判らないが、私は、「先祖を敬う心」が大事である点を申し上げておきたい。 

 ちなみに、国のリーダーたる者は科学的な思索にもとづいて経済社会のあるべき姿を考えねばならない。哲学は科学であり宗教は科学でない。もちろん宗教にも、華厳哲学という言葉があるのを見ても判るように、哲学的部分が少なくないので、いちがいに宗教を非科学的という訳にはいかないが、神話と同様に、宗教については、注意深く哲学的な目でもってその内容を見る必要がある。かって私は、社会に対する遺言としてそれを書いたと思われる・・・カール・セーガンの「科学と悪霊」という本の要点を紹介したことがあるが、国のリーダーたるもの、常に科学的な思考をしなければならないものと自戒している。その上で申し上げることだが、「空」は、国のあるべき姿を考える際も、コミュニティーのあるべき姿を考える際にも、或いは家族のあり方を考える際にも、宗教的な色はできるだけ控えた方がよい。「先祖を敬う心」が大事であるであるとして、ゆめゆめ先祖の霊がどうのこうという霊能者が世に蔓延(はび)ることのないよう社会構造そのものを変えていかなければならない。祖先崇拝を云々するとき、その点は強調しておかなければならないだろう。
 
 さて、地域構造のあるべき姿(かたち)を考える際にも「空」を中心に据えなければならない。それは宗教であってはならないし、もちろん行政でもない。行政は権力であり、それとは別に権威が必要なのである。地域構造と「空」については、後ほどゆっくり考えるとして、私が今イメージしていることを申し上げておくと、それは・・・コミュニティーのなかにどのようにして権威あるNPOをつくるか・・・ということである。
 
地域構造と「空」その2
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邪馬台国と大和朝廷を推理する
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天皇陵の軍事的基礎

古田史学会報 
米と肉という対立の発見(三浦佑之)
神話と昔話−
網野善彦(日本の歴史)文献
第15回講座−神道の未来−